写真と映像にみる関東大震災
震災写真との出会い
筆者は2008年に共同通信社で定年を迎えた後、嘱託として資料写真部門で古い報道写真の掘り起こしと裏付け調査に従事してきた。「過去もの」と呼ばれる資料写真の塊の一つに関東大震災の写真があった。日本電報通信社由来の写真原板(キャビネネガフィルム)約250枚である。発生から復興までの記録は貴重なアーカイブであり、それを手に取って見る事ができるのは大きなアドバンテージである。一方で、これを安心して使えるようにする責任がある。2011年秋、解明作業に着手した。
撮影から百年近いネガフィルムは、一部はベースが波打つなど劣化が始まっていた。大サイズのtiff画像を作製し、傷やホコリを修復するとともに、黒つぶれと白飛びを修正し、ダイナミックレンジを調整した。狙いは、ネガの持つ情報を目いっぱい引き出し、何が写っているかを究明することである。
残念なのは写真説明が舌足らずだったり、誤りが散見されることだ。一枚ごとに、撮影場所(どの地点でどの方角を撮ったか)、撮影日、写っている人や建物の解明に努めてきた。さらに一歩進めて、定点観測の視点で現在の姿との比定を心がけた。
自社分以外にも、朝日新聞社、毎日新聞社、復興記念館、国立科学博物館等の所蔵写真や、それらを使った出版物を国会図書館や都立中央図書館で点検し、おおよそ震災写真の分布状況と流通実態が分かってきた。
パノラマ制作過程で捏造に気づく
2012年秋、東京都慰霊協会が、翌年の関東大震災90周年に向けて、付属の復興記念館の展示をリニューアルすることを決め、私が写真の監修を任された。素材は、1931年、同館発足時に報道各社などから寄贈された一連の震災写真である。展示の目玉として、当時の報知新聞社撮影の宮城前避難群衆の3枚を連結して、初めて、ヨコ4.6メートルの大パノラマに仕立てた[図1]。これは現在も復興記念館で展示している。
この写真の解明を進める中で、背景を火煙に描き替え、説明を38,000人が死亡した本所の被服廠跡と偽った捏造絵葉書があることに気づいた[図2]。これを契機に調べたら、震災写真には、混乱時に起きたケアレスミスによる写真の裏焼や取り違えだけでなく、意図的な改ざんと捏造が少なくないことが判明した。その事実を2018年の歴史地震研究会で口頭発表し、翌年には論文として会誌に投稿、災害史研究者に注意喚起した[注1] 。
「関東大震災映像デジタルアーカイブ」の公開は福音
震災写真の全体像を把握した後、では映画はどうであろうかと思った。2015年5月、フィルムセンター(現・国立映画アーカイブ)で震災映画の上映会があり、見に行ったが、個人での調査は素材へのアクセスや映写装置などで制約があり、無理だと感じた。半ば諦めていたところ、今回、震災映像が続々とネットで公開されたことは、震災写真研究者にとって大いなる福音である。ご苦労を重ねてこられた関係の皆様に心より感謝したい。
震災映像を見て
5月14日、国立映画アーカイブで、東京シネマ商会撮影・文部省製作の『關東大震大火實況』(63分)の上映が、弁士・伴奏付きで実施された。弁士の解説は茨城県の神龍寺が所蔵する「映画『關東大震大火實況』 説明台本」に基づいて行われ、淡々としたナレーションは、抑制のきいたギターの伴奏と相まって、内容の理解を助けた。この台本は本サイトの「資料をみる」で公開されている。
こうして公開映像6種類(2022年5月31日現在)を見たが、全般的に初めて見る場面が多い。それも炎上中や避難中など、現在進行形映像のオンパレードである。シネカメラマンの初動の良さは驚くばかりだ。6本のフィルム映像には、同一カットが相互に含まれているが、階調や鮮明さの違いから、オリジナルネガに近いかどうか判定できそうだ。
映画は静止画と違い細工が難しいためか、ざっと見た限り、改ざんや捏造は見つからなかった。しかし『東京大震災』の11:00[動画1]、白壁の広告「冷蔵函」と後方に凌雲閣が写る場面は、文字が裏返しになっていることから「裏焼き」と分かった。正しいものは『帝都の大震災 大正十二年九月一日』の5:32[動画2]にあるので見比べられたい。映画でも裏焼が存在するのを私は初めて確認した。ネガからプリントを作成するときのトラブルと思われる。
映像独自の場面やカット
これまで膨大な量の震災写真に接してきたが、今回の映像には、スチールにはない初めて見るカットが多くあった。以下に示す。
- 03:08 帝室林野管理局庁舎 の炎上場面と、その消火に当たる消防ポンプ。車体には「宮内省」と書かれている。宮内省の皇宮警察は消防ポンプを所有していた。
- 23:34 「内閣諸大臣」と、「閣議を終へて」では、山本権兵衛首相以下、財部彪海相、田中義一陸相、平沼騏一郎法相、伊集院彦吉外相、井上準之助蔵相、岡野敬次郎文相、後藤新平内相、犬養毅逓相、田健治郎農商相ら各閣僚の顔が確認でき、貴重である。「映画『關東大震大火實況』説明台本」によれば、(9月29日)日光から還啓の貞明皇后を上野駅へ奉迎に急ぐ、としている。
- 54:20 皇居の明治宮殿。遠景で写る姿はスチールで見たことがあるが、こちらはそのものずばり、安泰の宮殿の姿である[動画3]。
- 54:50 貞明皇后の市内巡視。上野駅到着後、上野・山王台へ。背景には西郷さん銅像や彰義隊の墓が確認できる。また精細なスチール画像では確認していたが、映像でもアップ気味だと、皇后は帽子に薄いベールをかぶっているのが分かる。
- 1:01:02 宮内省巡回救療班、具体的な診療風景まで撮っていた。
上野山下や上野駅構内など界隈の状況が活写されている。
『関東大震災実況 (日活) 』
- 01:10 ネギ坊主形塔屋の建物が、背景に写る日米信託ビルから、京橋区中橋広小路の千疋屋と解明している。私が10年来捜していた答えがズバリ出ていた。
映像ならではのもの
その動感描写から、文字通り“活動写真”だなと感心したカットがいくつかある。
- 31:24 赤十字社救護班の看護婦が、包帯を二つに引き割く場面[動画6]と、35:03[動画7]の保護された乳児が哺乳瓶を懸命に吸う場面の口元の動きは、サイレントなのにそれぞれ「ビリッリッ」、「チュバ、チュバ」と音が聞こえるような錯覚を覚えた。
- 42:17 浅草の凌雲閣が爆破され、崩壊する場面。
- 56:30 摂政宮の被災地巡視。上野・山王台の野立所ではカメラをパンすることで山王台と、その下に広がる市街の位置関係、時間経過がよく分かり、対応するスチール写真がどの瞬間を切り取ったかを裏付けている。テーブルに広げられた地図には瓦の破片が重しとして置かれ、テーブルクロスの裾が大きく揺れていて、風が強く吹いていたことが分かる。スチールでは知る由もない[動画8]。巡視中の摂政宮は、馬上でもしばしば敬礼しているのが分かる。
- 59:45 久邇宮家の御下賜の被服の裁縫場面は、スチールでは見たことがない。良子女王(摂政宮の婚約者、後の香淳皇后)と妹君の信子女王が、妃殿下と共に慣れた手つきで運針するのが実に意外であった[動画9]。宮家では裁縫はたしなみの一つであったかと認識を新たにした。震災との関係で初めて垣間見ることができた皇族の普段の姿である。
摂政宮も映像に注目
まだラジオもテレビもない時代、ニュースを知るのは新聞が頼りであったが、多くの新聞社が被災し、しばらくは機能しなかった。それに対して、映画は小回りが利いたようだ。ビジュアル情報として映画の価値は高かった。『昭和天皇実録』を見ると、摂政宮(当時22歳、後の昭和天皇)は節目ごとに、宮中でニュース映画を見て状況把握に努めていたことが分かる。
9月15日の第1回の被災地巡視の前夜、『昭和天皇実録』 には「夜、婦女界社撮影の東京・横浜両市災害状況に関する活動写真を御覧になる」とある[注2]。「婦女界社撮影映画」とは、本サイトで公開している 『關東大震大火實況』の元素材の一部とみられる。摂政宮の「非常に良い参考であるから日光滞在中の両陛下にも是非ご覧に入れよ」との仰せで、16日、日光の田母沢御用邸で両陛下に天覧・台覧の運びとなった[注3]。
以後、摂政宮は、9月26日には関東戒厳司令部撮影の東京震災状況、戒厳司令部の活動、自身の災害地巡視、横浜付近震災状況を、9月30日文部省撮影の震災状況活動写真、10月13日震災実況活動写真、10月23日横浜シネマ撮影の横浜震災に関する活動映画、11月3日文部省並びに内匠寮撮影の震災に関する活動写真 、を御覧になっている[注4]。
おわりに
映像の生々しく臨場感ある表現は、専らスチールを扱ってきた筆者には大変新鮮で、あらためてムービーとスチールの文法や機能の違いと、表現の差を感じた。大判ネガフィルムの精細でかっちりした描写と、映画の時間経過(動感)の表現、それぞれの長所を生かし、補い合うことで震災のビジュアル記録の解明がさらに進むと思う。今後、関係者の情報交換や意見交換が実現することに期待したい。
- 沼田清「[資料]関東大震災写真の改ざんや捏造の事例」(歴史地震研究会『歴史地震』第34号、2019年)103-113頁。
https://www.histeq.jp/kaishi/HE34/HE34_103_113_Numata.pdf - 『昭和天皇実録 第三 自大正十年至大正十二年』(東京書籍、2015年)933頁。
- 久我通「本社特寫の大震災映畫 天覽 台覽の榮を賜ふ」(『婦女界』十月號、婦女界社、1923年)7頁。
- 上掲『昭和天皇実録』942、944、950、955、960頁。
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