関東大震災実況

作品詳細

映画題名 関東大震災実況
映画題名ヨミ カントウダイシンサイジッキョウ
制作年月日 1923年
時間(分) 20
サウンド サイレント
カラーの種類 染色
作品解説 日活のカメラマンが向島の撮影所を飛び出し、地震発生当日から3、4日にかけての被災状況を収めたフッテージを含む一篇。同一画面の繰り返しや別作品の繋ぎこみが見られる素材だが、当時「決死的」と喧伝された撮影による映像の速報性や記録性とともに、構図やフレームに対するカメラマンの高い意識もうかがわれる。
制作会社 日活(向島撮影所)
配給会社 日活
配給年月日 1923年9月7日
スタッフ 撮影:髙阪(ママ)利光、伊佐山三郎
検閲番号等 内務省検閲において、日活製作による震災関連の記録映画と思われる作品が通過した初めての記録は、1925年7月17日『聞(ママ)東大震災實況』(検閲番号343番、巻数=1、米数=204、申請者=大正生命保險株式會社)。その後、同年9月1日には日活が申請者となり、『關東震災の實況』(検閲番号1,756番、巻数=1、米数=349)、『大震災後の東京市』(検閲番号1,757番、巻数=1、米數=133)、『關東大震災戒嚴司令部』(検閲番号1,758番、巻数=3、米数=789)の3本が、同年9月25日には同じく日活が申請者となり、『關東大震災第一報』が2本(検閲番号2685番,巻数=1、米数=124/検閲番号2686番、巻数=1、米数=179)が検閲を通過している。
フィルム映写速度 16 fps
備考 素材は、プラネット映画資料図書館所蔵35㎜プリントより、2005年度に複製した35㎜インターネガ(同時に35㎜プリントを作成し、上映を行っている)。
日活向島撮影所の撮影技師としてクレジットされている髙坂利光によれば(『日活畫報』1923年11月号)、撮影所のセットで若山治監督『戀と戦ふ女』撮影中に激しい揺れを体験。すぐさまカメラを担いで、浅草六区・十二階へ。その後、千束通り、仲見世、浅草広小路、厩橋、蔵前高等工業学校、浅草橋から自動車に便乗し、神田一ツ橋から今川橋、日本橋、京橋、銀座へ。日本橋区上槙町の日活本社に立ち寄り、すぐに有楽町、帝国劇場、警視庁の火災現場に。再び本社に戻って根岸耕一支配人と面会後、三越、呉服橋、馬場先門に向かい、その夜は日比谷公園で過ごしたという。初日でフィルムを使い果たし、翌2日は延焼中の上野や、日暮里、吉原を抜けて向島撮影所へ戻る。3日、4日は浅草と上野の焼跡を撮影し、その晩に日暮里から京都へ向けて出発。7日午後に京都に着き、上京区衣笠村の日活大将軍撮影所で現像。その日の夜に新京極の帝國館で650尺を封切ったという。
公開時の新聞広告から(『大阪朝日新聞』附録、 1923年9月9日)、どのような描写が作品に含まれていたのかが推察できる。「慘又慘!/關東大震災實況/炎上しつゝある大東京市/九月一、二、三、四日の慘狀詳報/日活東京向島撮影所技師高阪利光、伊佐山三郎/兩氏決死的撮影/▶凄慘なる銀座通其附近 ▶浅草十二階崩壊の刹那/▶日本橋の慘狀 ▶炎上しつゝある警視廳、帝劇、丸ビル/▶火中神田橋附近 ▶藏前高等工業學校/▶有樂町の慘狀 ▶慘又慘/▶累々たる屍 ▶一眸千里絶滅せる大東京市/昨日より大阪、京都、神戸各地日活特約舘に於て上映/謹告 日活向島撮影所は幸い焼失を免れ専属俳優所員一同無事に付/乍●●御安心被成下度候/日本活動寫眞株式會社關西支店」(●は判読不能、/は改行)。
なお、前述の『日活畫報』グラビアページには、「此の寫眞は高坂技師が決死的撮影のフヰルム原畫にして國寶の価値あり」とのキャッチで18点のコマ写真と、別ページに7点のスナップが掲載されているが、本動画の画像と対照してみると、現存フィルムが当時公開された作品の一部であることが判る。
参考文献 髙坂利光(撮影技師)「ホーヱル機を肩にして 大震災實况撮影の苦心」(『日活畫報』十一月 大震災號、日活畫報社、1923年)11-12頁。田中純一郎『日本教育映画発達史』(蝸牛社、1979年)49-51頁。大澤浄「関東大震災記録映画群の同定と分類――NFC所蔵フィルムを中心として」(『東京国立近代美術館研究紀要』17号、2013年)48-61頁。
  • 本動画には一部センシティブな描写が含まれている場合があります。