フィルムに残る、記録者たちの背中を追いかけながら

小森はるか(映像作家)

2011年、私は国立映画アーカイブ(当時は東京国立近代美術館フィルムセンター)でインターンをしていました。インターン活動の一つとして、「こども映画館」という夏休みのイベントで小学生を展示室に案内する機会があり、素人ながら解説の練習を必死にしていたのが懐かしい思い出です。その展示室にて出会ったのが、関東大震災の映像でした。おそらく『關東大震大火實況』の一部がループ上映されていたと思います。大正時代の災害が映像で残されている驚きとともに、画面に映っていた火、建物、人々、またキャプションにあった白井茂という撮影者の名前は、関東大震災を”現実”の出来事として初めて自分の記憶に刻むものでした。1923年から88年後の2011年。東日本大震災が起き、ジャーナリストも、作家も、市民も、たくさんの人たちが映像で記録し始めていて、私もその一人でした。悩みながらも東北へとカメラ携え向かう者たちに、何かメッセージを送ってくれているように感じたことを覚えています。あれから11年が経って、改めて出会い直すきっかけをいただいたことに感謝しています。

サイトに公開されている記録映画を順番に見ていくうちに、公開の時期や製作目的が異なるとはいえ、撮影にしても、編集にしても、一本一本に伝えようとした人たちの作為が刻まれているものなんだと、当たり前のことへの感動が積み重なっていきました。それは再生される白黒のフィルムが想像以上に鮮明であった感動と繋がっているのですが、図像としての鮮明さもありつつ、何が起きているのか、何を写そうとしているのかが読み取れる、狙いの鮮明さでもあると思いました。どこにカメラを置くのか、自らの足で歩き、目で見て、切り取ったフレームに、伝える側の存在が消えずに残っていました。

なかでも白井茂キャメラマンは、発災時から復興過程までと撮影期間が長期であったことや、私自身がその名前を記憶していたことからか、作り手の眼差しをより感じ取ることができました。『關東大震大火實況』には、人の表情が写っていることにまず惹かれました。他の記録からも、通り過ぎていく人々の表情を窺うことはできますが、それとは別の、顔というものを捉えようとしたショットがある。はっきりと正面から人の顔を写したものがあり、それは子供でした。孤児や迷子となった子供たちのポートレート[動画1]、また野外少国民学校で授業を受ける子供たちの並ぶ顔を撮ったものもありました。手を挙げる姿をパンして写していますが、先生と子供たちとの目線の間にカメラを据えているということは、撮影のために子供たちが演技しているのでしょう。正面ではないですが、顔を包帯で巻かれた子が他の子の後を追いながら泣いている姿[動画2]や、野外理髪店にいた子たちのふざけた笑み[動画3]も心に残っています。このフィルムには子供たちのありのままの顔が多く捉えられています。弱きものたちを、弱さとしてではなく、今ここにある命そのものとして写そうとしている、そんな思いを感じます。

動画1
映画題名
關東大震大火實況
再生箇所 TC[in/out]
00:38:10:10/00:38:23:08
動画2
映画題名
關東大震大火實況
再生箇所 TC[in/out]
00:17:17:07/00:17:26:12
動画3
映画題名
關東大震大火實況
再生箇所 TC[in/out]
00:43:11:22/00:43:20:15

もう一つ、妙に印象深く思った表情は、寺院(?)の前に一人避難しているお婆さんがカメラに向けた表情でした。途中からパンをするので写っている時間は短いのですが、すごくいい笑顔で、その人らしい表情をカメラに見せている。パンするのは、もしかしたらこの方を写すのは忍びない気持ちがあったからかもしれないですが、このショットが切られずに残っているということは、お婆さんがふいに見せてくれた笑みを目に留めた、撮り手の思いが反映されているのではないかと思いたくなります[動画4]。

動画4
映画題名
大正十二年九月一日 帝都大震災大火災 大惨状
再生箇所 TC[in/out]
00:25:03:13/00:25:10:20

そんな風に思い巡らせるようになっていくうち、表情だけではなく、このフィルムには人々が何かしている姿に、行為や状況ではなく、人間の情を写している場面がたくさんあると感じるようになりました。救護する人たちの手つき[動画5]、炊き出しする人が混ぜ返すご飯粒、湯気にも、貼り紙[動画6]や壊れた仏像、建物にも。被災や復旧・復興の状況を記録しながらも、何もなくなった場所から生活を立て直していく人間の強かさを描いていました。それは私自身が東北の沿岸部で見た、最も忘れたくないと思ったものと通じていました。確かにここは悲惨な場所であるけれど、悲惨さを伝えたいと思う時に排除してしまう、もう一方の現実を、ちゃんと残していた人がいるのだということを教えてくれました。

動画5
映画題名
關東大震大火實況
再生箇所 TC[in/out]
00:33:16:02/00:33:32:01
動画6
映画題名
關東大震大火實況
再生箇所 TC[in/out]
00:16:29:03/00:16:44:17

白井茂キャメラマンが当時を語る発言が書籍にあると知り、『カメラと人生―白井茂回顧録―』、『キネマを聞く 日本映画史の証言者30人PART1』の該当部分を読むことが叶いました。この体験談にはまた驚きの連続でした。人混みを担いで歩く機材やフィルムの重さ、電源がないのでローソクの灯で現像したなど、まず非常時に撮影をすること自体物理的にもどれほど困難であったか、観ている時には思い至りませんでした。

白井キャメラマンは東京シネマ商会に入社し、教育映画の撮影、連鎖劇の撮影などをする一方で、アメリカに日本でニュースを取材して送る仕事もしていた人です。日本では、まだ記録映画もニュース性の強い映画も「実写映画」と呼ばれており、その時期に「ニュース映画」に対する関心の寄せ方は、自分は早い方だったと振り返っています。関東大震災が発生した9月1日、白井は連鎖劇の撮影のために居た埼玉の熊谷で地震に遭い、カメラ一式を持って外へと飛び出しました。「早く何処かでこの地震の実写を撮るべきだ」と、自らの判断で動き始めます。最初に大宮で洪水が起きているとの噂を耳にし、大宮へと向かいますが、実際洪水は起きておらず、足がない中、必死の思いで東京へと急いだのです。白井は真っ先に撮るべきという気持ちを抱いた者の一人でありながら、その当日撮ることが叶わなかった人でもあったのだと思いました。

翌日から撮影を始めますが、その先もうまくは進んでいきません。歩いて撮影していたのでは捗らないと、運よく手配できた車に乗って上野へと向かいますが、病人を運んでほしいと頼まれては乗せ、道路も悪く、まっすぐには目的地にたどり着かない道を進みます。やっと着いた上野公園、避難してきた人たちを車内から写そうとすれば「こんな時に活動写真なんて呑気なことを」と反感をかい、車をぐるり囲まれてしまう。映像には残されていない、撮られる側の当然の反応があったことを伝えるエピソードとしても読みました。撮影隊は必死に「救援物資を仰ぐのにこの写真を早く役立たせたいのだ」と車の上に登って訴え、運よくその言葉が届き、人々は道を開けてくれたそうです。しかし二日後の被服廠跡での撮影時には、より深刻な事態となります。「殺してしまえ」と叫ぶ声が自分達に向けられていることに気づくと、次から次に叫びながら後をついてくる人たちがいる。カメラをたたみ、辛うじて逃げた先、今度は兵隊に囲まれてしまい、銃剣を突きつけられます。なんとか理解を得られ、今日は帰った方が安全だということになり、警官を乗せたトラックに乗せてもらって帰るのですが、降ろされた場所は仮留置場。罪人扱いを受けるはめになります。そこで一晩過ごし、翌朝無事に放免されますが、撮影したフィルムを没収されてしまいました。渡したのは途中入れ替えたフィルムだったため、全てを失うことなく済んだのが不幸中の幸いでした。一刻も早く伝えなければならない、なのに全く先へ進まない、進まないどころか命が脅かされる事態。この壮絶な経験をしながらも記録を続けてきたことに驚愕しますが、もしかしたら撮れなかった経験が、即時的な伝え方ではない方へと、カメラの向けさせ方を導いたのかもしれません。

また別の意味で、撮れなかった、撮らなかった経験をしています。たくさんの犠牲者を出した被服廠跡で、焼死体の山へとカメラを向けようと覚悟し、そばに立っていた一人の警官に、白井は撮影の許可を取るため声をかけます。警官は「よろしい」と答えた後、「しかしこの死体だけは私の家族だから撮らないでほしい」と、足元の山を見つめながら言ったそうです。その時の記憶が以下のように綴られています。

私は呆然として、この傷ましい警官を何と慰めて良いのか言葉が出ない。ただその焼死者の山に心から黙礼をして冥福を祈るばかりだった。私は心をとりなおし、自らを励まして撮影を始めた。この余りにも大きい惨状を、ただ夢中のようにクランクを回した。フィルムも夢中で取りかえた。心とは別に手だけが動いている感じでもあった。何も聞こえない、太陽だけが強く白々と光っていた。

白井茂『カメラと人生―白井茂回顧録―』(ユニ通信社、1983年)48頁

撮らないで欲しいという一言を受けて、また撮り続ける。この複雑な思いに胸が詰まります。しかし『關東大震大火實況』で観た被服廠跡には、その光景は出てきません。文部省製作のものとして避けられたのかもしれませんが、代わりと言って良いか、写っていたのは花を手向け、手を合わせる人たちの姿でした。花でいっぱいになるその場所を観た時、静かな祈りの光景は、時間が経っても変わらない悲しみを、いまに伝えてくれるものだと思いました[動画7]。発災直後からは日が経過しての撮影だと、白骨の山が映っていることから推測します[動画8]。同じ場所にいた警官の祈りも映像の中に漂っているような気がします。

動画7
映画題名
關東大震大火實況
再生箇所 TC[in/out]
00:35:50:13/00:35:55:08
動画8
映画題名
關東大震大火實況
再生箇所 TC[in/out]
00:36:20:18/00:36:31:17

白井茂キャメラマンの発言を読みながら、このサイトで公開されているどの映画も、カメラを持つ人たちが災禍の中心にいた当事者だからこそ捉えられた記録だと、改めて思いました。白井は神田にあった下宿先を火災で失っており、その神田から煙が登っていく状況も撮影しています。撮影の危険手当として家財道具を買えるお金を手にしたから平気であった、と書いていますが、平気でいるしかなかったのではと思います。日活撮影による『関東大震災実況』は9月1日から4日までを撮影し、フィルムは京都へと急ぎ運ばれ、到着した7日の晩に封切られたそうです。いち早く、被災地外へと現状を知らしめた映像には、燃え盛る炎を間近に捉える、迫っていくカメラに目を奪われます。一方、『帝都大震災 大正十二年九月一日(別題名 震災ト三井)』は、三井本館が被災した状況を丹念に建物の内部、外部の様々な角度から資料的に残すように撮られていて、他の映像とはカメラの持つ記録性の扱いが異なっているのを興味深く思います。それぞれ居た場所、被災状況によって伝えられることが異なっている。けれど、その差異には“やむにやまれぬ思い”が等しく映っていると思いました。災害を映像で残し伝える、その原点ともいえる記録たちに、自分自身が抱いたことを重ねて見ていました。白井キャメラマンは当時24歳でした。その年齢は私が東日本大震災を経験した年齢と偶然にも近く、とはいえまるっきり違うと思いますが、どれだけ成熟していても、若者としての目線がそこにはあっただろうと思います。

2022年9月1日、私は横網町公園を訪れました。旧被服廠跡です。たまたまその日に行くことができ、映像で観た場面を思い出していたのですが、現在の風景に重ねるのはなかなか難しく、ただ手を合わせてきました。帰り際、何か箱形のカメラで撮影している人たちがいることに気づき、そこに撮り手の姿を少し重ね見るという不思議な体験をしたのです[図1]。 あとから、国立映画アーカイブのとちぎあきらさんに、3人のキャメラマン(白井茂、高坂利光[日活]、岩岡巽[岩岡商会])に焦点を当てた映像作品の製作をされている井上実監督たちだったとお聞きしました。記録した人たちの仕事をまた記録する人たちが現れる。連綿と続いていく姿を同じ場所で見かけた偶然に、私自身もまた記録者として続けていく力をもらったように感じました。

図1:横網町公園で撮影をしていたクルー(著者撮影)

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