映像に残った被災地、横浜
歴史資料の複合的かつ多角的な分析
未曾有の大災害となった関東大震災の実態に迫るには、災害誌や公文書、日記や体験記、新聞雑誌、刊行物などの文字資料はもちろん、絵画や写真、映像、石碑などの非文字資料からのアプローチも必要不可欠である。多種多様な歴史資料を複合的に分析することで、情報の欠落部分を補うだけでなく、様々な視角から関東大震災の災害像を浮かび上がらせることも可能となる。文字資料の批判的な分析から過去の事象を再現する歴史学、文献史学を専門とする筆者は、これまで公文書や災害誌、日記や体験記などの私文書、法令などを多角的に検討することで、関東大震災時の軍隊の対応を制度面から明らかにした[注1] 。それと同時に、横浜市の博物館及び文書館の専門職員(学芸員・アーキビスト)として、文字資料に基盤を置きつつも、写真資料等の分析から横浜の被災状況の再現に努めてきた。
関東大震災を記録した写真や絵葉書は数多く残っており、それらをまとめた写真集も刊行されているものの、被写体の分析に踏み込んだものは極めて少なく、個々の写真や絵葉書が誕生した経緯などはほとんど明らかになっていなかった。しかし、近年、沼田清氏が共同通信社所蔵の写真(主に日本電報通信社撮影)を中心に、精力的に被写体の分析作業を進め、撮影場所の特定だけでなく、裏焼や加工の痕跡も浮き彫りにしている[注2] 。写真や絵葉書の活用には、十分な史料批判が必要であり、①いつ、②どこで、③誰が、④何のために撮影したのか、様々な歴史資料を比較検討しながら、これら4つの点を押さえる必要がある[注3] 。当然、映像資料の分析においても同様の作業が求められる。
筆者は横浜市史資料室に勤務していた2009(平成21)年4月に前川写真館(横浜市神奈川区)旧蔵の写真帳(震災写真150枚)と出会って以来、横浜における関東大震災、そして写真資料とむきあってきた[図1] 。従来、横浜の震災写真に関しては、岡本三郎(戸籍名は「三朗」)の撮影した写真群が知られていたが[注4] 、ガラス乾板や関連文書とともに、前川写真館から大量の写真資料が発見されたことで、その撮影者は創業者の前川謙三であると判明した[注5]。前川は帝室技芸員を務めた丸木利陽の高弟で、「金港一流の写真師」としても知られており、横浜市の要請を受けて被災地の状況をカメラに収めていった[注6] 。また、2018年秋、鎌倉市内の旧西野写真館から発見されたガラス乾板28枚は、横浜の状況を鮮明に捉えており、撮影者は創業者の西野芳之助だと推定できる[注7]。岡本や前川、西野の撮影した写真は、公的な記録である「災害誌」だけでなく、絵葉書など様々な媒体で幅広く活用され、横浜の関東大震災を視覚的に捉える基礎的な資料となっている。
そうした写真資料の研究成果を踏まえつつ、本稿では、被災地となった横浜を記録した『関東大震災』[伊奈精一版]を事例に、撮影場所や被写体について考察を加えるとともに、複合的な資料の分析方法を提示していきたい。
記録された横浜の関東大震災
関東大震災時の横浜を記録した映像には、カメラマンの相原隆昌の撮影した『横浜大震火災(惨状)』(横浜シネマ商会)が知られており、相原は地震で妻を失いつつも被災地の状況を記録したという[注8]。また、『關東大震大火實況』(東京シネマ商会)にも横浜の被災状況が記録され、避難する人びと、復旧活動に従事する諸団体の姿も確認できる。そうしたなか、『関東大震災』[伊奈精一版](全14分34秒)は自動車を活用しつつ、被災地となった横浜市街地をダイナミックに撮影している[注9]。以下、写真や地図、文献等の記録と照合させながら項目ごとに撮影場所、被写体に関する分析を加えていきたい(以下、(1)から(9)までの小見出しは、映画の各パートTOPの中間字幕を起こしたもの。時間は字幕を除いた画から画までの長さを記している)。
(1)「壊滅の横濱市 滿目盡く灰燼の巷 」〔09:13~10:22〕
『関東大震災』[伊奈精一版]は、冒頭より東京の状況描写が続くが、09:13から映像は横浜の状況へと移る。最初は地蔵坂の上、山手の丘(現在のイタリア山庭園付近)から横浜市街地を俯瞰している。市街地の西側、近世期に干拓された旧吉田新田の方向から寿小学校(09:24)、伊勢佐木町の野澤屋呉服店と吉田橋周辺(09:27)、横浜市庁舎(09:30)、横浜正金銀行や十五銀行ビル、開港記念横浜会館など関内方面の建築物群(09:36)、横浜中央電話局新庁舎(09:41)、焼け野原となった中華街(09:46)、旧内田造船鉄工所(09:50)と続き、関内の東端、堀川の河口部を捉えている。その後、カメラは関内の建物群の方向に戻り、横浜公園(10:02)を映したところで降下、吉浜町の焼け跡、中村川の艀と移り、石川町の焼け跡を映して派大岡川、中村川、堀川の合流点で終わっている(10:20)。
これだけの映像でも様々な情報が読み取れるが、紙幅の関係上、1点だけ例示的に指摘しておきたい。09:54には横浜港に停泊する戦艦「伊勢」が確認できる。1923(大正12)年9月1日の地震発生後、横浜港には、横須賀鎮守府所属の戦艦「山城」が3日に入港し、19日まで停泊していたが、映像の戦艦は艦橋後方の煙突の位置から考えて「伊勢」である。同艦の停泊期間は9日から30日までなので、映像はこの間に撮影されたと推察できる[動画1]。
(2)「救護事務に忙殺されつヽある 神奈川縣廳と横浜市役所 :假事務所:」〔10:29~10:45〕
地震発生後、神奈川県庁舎、横浜市庁舎ともに火災によって焼け落ちたため、前者は海外渡航検査所、後者は中央職業紹介所に機能を移転させた。この2つの建物は桜木町駅の西側に並んで建っていた。最初の10:29の映像には、中央職業紹介所(仮市庁舎)の外壁とともに、海外渡航検査所(仮県庁舎)の門柱も確認でき、左側に「神奈川 縣廳」、右側に「臨時震災救護事務局神奈川縣支部」の表札が掲げられていた。事務所内部の映像では、多くの人が慌ただしく動いている。桜木町は神奈川県における震災対応の中心地となっていた[注10]。
(3)「本町通」〔10:47~11:22〕
本作品の特徴である自動車からの映像である。弁天橋の東側、本町6丁目から始まり、本町5丁目と同4丁目との交差点手前でカーブ、官庁や領事館の集まる本町通りと日本大通りの交差点にむかって進んでいる。11:10から11:19の間は進行方向左側に位置する新港埠頭の施設、発電所の煙突等を捉えている。
(4)「1 縣廳 2 市役所 3 郵便局」〔11:27~11:45〕
最初に日本大通りから外壁部分を残した神奈川県庁を撮影している。1913(大正2)年に完成したこの建物は、耐震・耐火構造であったが、火が入り、内部から焼け落ちていった。11:33から始まる横浜市庁舎(港町1丁目)も同様の構造であったが、同じ運命をたどっている[注11]。撮影場所は派大岡川対岸の不老町で、港橋も確認できる。タイトル通りであれば、11:38から始まるのは「郵便局」だが、映っているのは、県庁の北側に位置した横浜税関の焼け跡である。ここでは職員の多くが犠牲となった[動画2] 。
(5)「各國領事舘と英國水兵の活躍」〔11:50~12:11〕
11:50から映る星条旗は山下町234番地(現・横浜情報文化センター所在地)にあったアメリカ総領事館のもので、11:52から11:57は同172番地(現・横浜開港資料館)のイギリス総領事館の様子を捉えている。焼け跡では、イギリス海軍の兵士たちが領事館の後片付けを行っていた。ここでは4人の領事館員が犠牲となっており、横浜開港資料館の旧館(旧イギリス総領事館)には、犠牲者を悼むプレートが設置されている。また、兵士たちの後方には、焼け残った露亜銀行や横浜中央電話局の新庁舎も確認できる[動画3]。11:57から始まる風景は洋館が並ぶ山手方面の状況であろう[動画4]。
(6)「税關と阜頭」〔12:14~12:51〕
最初は日本大通りと本町通りの交差点、横浜中央電話局の旧庁舎を捉えた後、反対側の横浜郵便局及び神奈川県警察部を撮影している。続いて12:22から横浜港内の映像に移り、象の鼻、税関監視部、大桟橋、水上警察署及び港務部の焼け跡を捉えている。12:36からは再び象の鼻と新港埠頭を映し、12:42からは港務部の焼け跡から山下町方面を撮影、ランドマークとなる横浜中央電話局新庁舎等が確認できる。
(7)「海岸通 1 オリヱンタルホテル 2 グランドホテル」〔12:56~13:33〕
自動車を用いつつ、港務部の東側から関内の東端まで続く海岸通り(バンド)を撮影している。後に左側に映る海岸線は瓦礫で埋め立てられ、山下公園となる。13:08からは国際港横浜を象徴するグランドホテルやオリエンタルホテルの被災状況を記録している。ここでは多くの外国人旅行客が犠牲となった。さらに13:23からは堀川の対岸に位置するフランス領事館、東側が落下した谷戸橋も確認できる。谷戸橋は陸軍の鉄道第2連隊が10月12日に完成させているので、映像はそれ以前に撮影されたと考えられる[注12][動画5] 。
(8)「海軍陸戰隊の應援 軍艦 山城 春日」〔13:42~13:57〕
堀川の河口部、山下橋際に設置された海軍救護本部の様子である。既述の通り 、9月3日正午、戦艦「山城」が横浜港に入港、市内の警備のため陸戦隊を上陸させたほか、短艇等を用いて輸送作業に従事した。さらに翌4日午後には海防艦「春日」も入港して陸戦隊を上陸させた[注13] 。5日、海軍は陸戦隊本部付近に救護所を開設、6日からは岡山県赤十字救護隊と共同で救療活動を展開した。13:49からの映像はその様子を捉えている。9日、連合艦隊の第3戦隊(旗艦は巡洋艦「球磨」、13日以降は戦艦「伊勢」)が入港すると、「山城」など横浜に展開する海軍は小林躋造少将(第3戦隊司令官)の指揮下に入った。その後、「春日」は14日に横須賀に移動、「山城」も19日に横須賀へ移動した。
(9)「以前殷振を極めた 伊勢佐木町附近」〔14:01~14:28〕
タイトルは「伊勢佐木町」とあるが、煉瓦塀や瓦礫、樹木の位置等から考えて、冒頭の映像は北仲通5丁目の横浜地方裁判所跡だと推察できる[動画6]。14:07から伊勢佐木町通りを自動車で走る映像に映り、道の右側には越前屋呉服店とその裏の蔵が確認できる。興味深いのは、14:11ですれ違う自動車で、ナンバープレートは「神275」である。同時期の『全国自動車所有者名簿』に依れば、これは根岸町在住の「ミス・エバーパープルノブル 」の自家用車であった[注14] 。フロントガラスに「軍用」のプレートがある点から軍隊に徴発された車両だとわかる。また、その後方には、ナンバープレート「4588」の自動車も確認できるが、残念ながら名簿には所有者の記載はない[動画7]。 最後は伊勢佐木町通りから野毛の丘を捉え、自動車の先端部分を映して終わっている[動画8]。
映像の中の横浜
以上の点を踏まえ、横浜の映像の全体像を見ると、撮影場所は最初に市街地を俯瞰した後、①桜木町、②本町通り、③日本大通り周辺、④税関、⑤海岸通りと関内地区を進み、最後は⑥関外方面、伊勢佐木町から旧吉田新田の奥へとむかっている。つまり、映像は旧吉田新田に始まり、最後はそこへ戻る形に編集されていた。撮影の時期は停泊する軍艦やインフラの復旧状況から考えて、9月9日から19日の間だと推察できる。ちょうど発災から2週間前後の状況と考えてよいだろう。この時点で自動車が走れるくらい瓦礫は撤去されていた。
『関東大震災』[伊奈精一版]の被写体を災害誌や写真資料、地図などの情報と照合することで、新たな情報を導き出すことが可能である。今後も映像を含めた様々な歴史資料を複合的に分析することで、より詳細な災害像、歴史像を提示していきたいと考えている。
- 吉田律人『軍隊の対内的機能と関東大震災―明治・大正期の災害出動―』(日本経済評論社、2016年)。
- 沼田清「[資料]関東大震災写真の改ざんや捏造の事例」(『歴史地震』第34号、2019年)103-111頁。
https://www.histeq.jp/kaishi/HE34/HE34_103_113_Numata.pdf - 吉田律人「写真記録『関東大震災関係写真帖』について」(横浜市史資料室編『報告書 横浜・関東大震災の記憶』2010年)57-63頁。
- 堀勇良「横浜人物小誌34 震災を記録した写真家 岡本三郎」(『横浜開港資料館館報 開港のひろば』第42号、1993年)7頁。
http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/images/kaikouno-hiroba_42.pdf - 前川謙三撮影写真の詳細は北原糸子編『写真集 関東大震災』(吉川弘文館、2010年)及び前掲『報告書 横浜・関東大震災の記憶』を参照。
- 吉田律人「横浜現代史人物伝② 写真家・前川謙三」(『横浜市史資料室情報誌 市史通信』第16号、2013年)7-9頁。
https://www.city.yokohama.lg.jp/city-info/yokohamashi/gaiyo/shishiryo/jyohoshi/1-25.files/0122_20180918.pdf - ガラス乾板発見の経緯や資料の概要については、以下を参照。
吉田律人「発見!関東大震災の写真原板」(『横浜開港資料館館報 開港のひろば』第150号、2021年)2-3頁。
http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/150/YAOH_hiroba150.pdf
吉田律人「関東大震災写真の分析方法―ガラス乾板に残る被災地情報―」(『横浜開港資料館館報 開港のひろば』第151号、2021年)4-5頁。
http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/151/YAOH_hiroba151.pdf
なお、写真の詳細は横浜開港資料館編『レンズ越しの被災地、横浜―西野写真館旧蔵関東大震災ガラス乾板写真―』(公益財団法人横浜市ふるさと歴史財団、2021年)を参照。 -
小林忠平編『神奈川縣名鑑』(横濱貿易新報社、1935年)372-373頁。
(国立国会図書館デジタルコレクション)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1216606/204
なお、同資料の分析については松本洋幸「記録映画『横浜大震火災(惨状)』について」(前掲『報告書 横浜・関東大震災の記憶』52-56頁)を参照。 - 震災映像の概要等は『シンポジウム報告論集 関東大震災と記録映画―都市の死と再生―』(東京大学大学院人文社会系研究科、2004年)13頁を参照。
- 吉田律人「関東大震災と横浜市役所」(『横浜市史資料室情報誌 市史通信』第5号、2009年)9-11頁。
https://www.city.yokohama.lg.jp/city-info/yokohamashi/gaiyo/shishiryo/jyohoshi/1-25.files/0220_20180918.pdf - 横浜市庁舎の復興の経緯は吉田律人「資料よもやま話2 横浜市庁舎の震災復興」(『横浜開港資料館館報 開港のひろば』第148号、2020年)6-7頁を参照。
http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/148/YAOH_hiroba148.pdf - 横濱市役所市史編纂係編『横濱市震災誌 第四冊』(横濱市役所、1927年)101-106頁「参考三 陸軍工兵諸隊の作業援助と其の他の活動」。
(横浜市「関東大震災を調べる 震災の記録を読む。 関東大震災 横浜市震災誌 第4冊」)
https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/kyodo-manabi/library/shiru/kantodaishinsai/menu/shinsaikiroku/hon-shin4.files/0001_20180830.pdf - 横浜における海軍艦艇の活動は東京市役所『東京震災錄 前輯』(1926年)「第一篇 応急措置 第二章 各紀 第二節 政府の活動 坤 活動 辰 海軍省及海軍の活動」18-25頁「第二、艦船部隊の行動」を参照。
(国立国会図書館デジタルコレクション)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448386/383
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448386/384
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448386/385
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448386/386 - 帝國自動車保護協会編『全國自動車所有者名簿 全』(1923年)268頁。
(国立国会図書館デジタルコレクション)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/916612/150
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