震災フィルム研究の10年

田中傑(都市史・災害史研究家)

震災フィルムとの出会い

1973年生まれのわたしは今年50歳になる。30歳の自分は研究者人生の展望が見えない大学院生で、バラックと呼ばれる仮設建築物がびっしりと立ち並んだ関東大震災後の東京下町に土地区画整理が施行され、社会基盤の整備に引き続いて建築物が建て替えられた結果生じた都市空間の変容を解明しようともがいていた。それから10年、学位を取得し、既にいくつかの研究機関を渡り歩いていた40歳の自分は専門外の分野の研究室に偶然拾って頂いた有期雇用の研究員になっていて、依然として研究者人生の展望が見えてはいなかったが、研究室を主宰するT教授から「関東大震災を記録した映画フィルムの研究」をしてみないかという提案を受けた。撮影場所が精確に把握できれば、他の資料と組み合わせることで関東大震災の史実に迫るための情報の解像度がさらに上がるのではないかという期待が教授にはあったのである。

教授はそのテーマを学部4年生の卒業研究の課題として設定し、わたしと学生数名が協働して研究を進め、卒業論文として仕上げることを構想されたのだった。研究の遂行にあたり、国立映画アーカイブの前身、東京国立近代美術館フィルムセンターを訪れ、関東大震災の映画フィルムのビデオコピーを借用した。学生たちは非常に真面目に作業をしてくださったが、作業量が膨大だった上、学生たちにとっては論文脱稿(卒業)の時期が、わたしにとっては任期切れ・異動の時期がそれぞれ迫ってきていたため、把握した事柄を再検証した上で成果としてまとめる時間が十分になかった。これが後述するように、のちに研究活動に対するわたしの姿勢に反省を促す要因となった。ここまでが震災フィルムとの出会いの一年目である。

さて、翌年、わたしは別の大学へ異動したが、今度はその大学の図書室でそれまで未知だった震災フィルムが見つかり、わたしは赴任早々、所属先の先生方を前にそのフィルムの価値についてお話しすることになった。やがて幾つかの報道番組で取り上げられたそのフィルムは、一年前にフィルムセンターから貸し出しを受けたビデオコピーとは(お世辞ではなく)比較にならないほど良い状態をとどめた鮮明な映像をとどめていた(現在、国立映画アーカイブの「関東大震災映像デジタルアーカイブ」にアップされているものは修復された上でデジタル化されたものなのだろうし、データ受け渡しの都合や外部へのデータ流出の懸念を考えれば、貸し出しデータの解像度を下げるのは当然であるから、これは仕方ない)。

研究の手法

ここで震災フィルムの研究の手法をご説明したい。大前提は「中間字幕に書かれた情報を信用しない」ことである。手法そのものはごく基本的なもので、新規性は全くない。まず初めにするのは、動画をスローで繰り返し再生し、画面に出てくる無数の被写体を繰り返し眺めることである。

全体を見たり、気になった一点だけに注目したり。道路の幅、舗装の状況、沿道の建物、建物や電柱についた看板、道路上の構造物…これら撮影場所を特定するための諸要素を映像から読み取り、ノートに抜書きしていく。撮影しているカメラの動きにより、ないしは被写体自体の動きにより、それまで隠れていて見えていなかったものが見えるようになる瞬間もある。撮影場所の見当をつけたら、その範囲を少しずつ絞っていく。どこか仮定して、その場所だったら何がどういうふうに写っているはずかを考え、構造物、火炎、日射(影)などの辻褄が合うかを検証する。

撮影場所を特定するための手がかりは多ければ多いほど良い——ただし、「見えていないものが見えてきてしまう」ことがないように留意しなければならない。場合によっては呼称のわからないモノが気になることもあるが、知識のない領域に関する事物をウェブ検索する際と同じで、この呼称の正確な特定が不可欠である。

その上で、それら諸要素の1923年9月1日(または、同日になるべく近い)時点の存在状況を記録した資料にあたる。太陽光の向き(影のでき方)も撮影場所の絞り込みには大切なヒントとなる(入射角を見積る際に予断が入ってしまう余地はある。また目の前の映像が裏焼き[フィルムからフィルムへの焼付を行う際のミスで、像が左右逆になった状態]である可能性も頭の隅に置いておく必要がある)。これまで参照してきた史料は写真、絵葉書、各種事業誌、報告書、電話帳、商工名録、町内会名簿、紳士録などである。

作業の一例

ここで、ある一つのシーンの撮影場所の特定過程を振り返ってみたい。正直に言うと、2013年当時のわたしは「中間字幕を信用しない」という基本方針を徹底していなかったため、大きなミスをしてしまった。
 当該シーンは『関東大震災実況』『帝都の大震災 大正十二年九月一日』など複数の映画に登場する。前者では「呉服橋より見たる日本橋區の猛火」、後者では「本町 本石町方面」という中間字幕がそれぞれ付く。

「呉服橋」と聞いたとき、わたしは一枚の絵葉書を思い出した。呉服橋の親柱が中央奥に、その右手には龍名館という木造3階建ての旅館が写っているものである。東京の街並みを撮影した古い絵葉書を収集し始めた頃に入手したもので、個人的に思い入れが強く、写真の構図が脳裏に残っていたため、「呉服橋」という中間字幕を見たときに「あれだ」と片付けてしまった。

図:[左上]『関東大震災実況』の中間字幕、[右上]同作品の当該場面、[左下]『帝都の大震災 大正十二年九月一日』の中間字幕、[右下]絵葉書「東京日本橋區呉服町 旅館龍名館支店」(著者蔵)

当該シーンと呉服橋の絵葉書とが一致しないという認識はあったが、「撮影時点から震災発生までのあいだに変化があった」と見做して納得していた。だから、当時所属していた大学のウェブサイトに「呉服橋」とするわたしの判断がアップロードされた際に一般のかたから疑義のメールを頂いたときには自らの甘さをつくづくと感じさせられた。

結論を言うと、このシーンは新常盤橋(1920年4月竣工[注1])を写したものである。中間字幕にあった「呉服橋」とは400m程度離れている。別の中間字幕にあった「本町 本石町方面」は橋の前方に広がっている。このように中間字幕は、場合によってはある程度は信用できるが、全く信用できないこともある。撮影場所を特定できたのは、橋の上に市電の軌道があるため『東京市電氣局震災誌』を確認していたところ、画面右端の四角い建物と同一と思しき東京市電気局常盤橋変圧所(1923年[注2]竣工)の写真を見つけたときだった。もしこのシーンが新常盤橋を撮影したものだとすれば、画面の左端(遠景)には常盤小学校の校舎が見えるはずで、それについても裏付けが得られた[注3][動画1][動画2]。

動画1
映画題名
関東大震災実況
再生箇所 TC[in/out]
00:02:08:16/00:02:22:16
動画2
映画題名
帝都の大震災 大正十二年九月一日
再生箇所 TC[in/out]
00:03:49:08/00:04:00:08

以上のように、何らかの根拠に基づいて撮影場所を特定したら、その映像に写っているはずのものを探し出し、その映像を別の資料で確認することを繰り返して特定結果を検証する。これが「呉服橋」の失敗を踏まえて自らに課したルールであった。

研究の社会的な意義

この「関東大震災映像デジタルアーカイブ」の仕事が本格化したのは2021年の初夏だったが、プレ調査の依頼を受けたのは2019年度末(2020年早春)だった。当時は新型コロナウイルス猖獗によって外出が出来なかったため、それまで自宅に溜め込んできていた史料や国立国会図書館デジタルコレクションを用いて依頼に応じた。

移動制限が緩和されて以降は国会図書館のほか、東京都立中央図書館、国立公文書館、東京都公文書館、防衛研究所戦史研究センター史料室、宮内公文書館、大学史資料室(卒業アルバムでキャンパス近隣の同時代的写真史料が掲載されている可能性)などに通って史料を確認し、撮影場所の特定・裏付けを進めていった。

わたしは現在、フリーランスの立場で研究活動を続けているため、この仕事を引き受けたことによって久しぶりに締め切りというものが設定され、「100%絶対と言い切れなくても、外部に発表する」機会を得た(特定結果の検証は延々と続けることが可能である)。

以前、とある大学の採用面接で研究活動の履歴を説明した際、「われわれが不出来な学生たちの指導をしたあとで外部の審議会の委員までを務めて疲弊しているなか、あなたはまるで趣味のような(=社会的に無益な)研究をやっている」と苦笑されたことがあった(カギカッコ内の採用委員の言葉は一言一句そのままという訳ではないが、ニュアンスとしてはそういう内容だったと記憶)。ちょうどその頃両親の老化を感じつつあったわたしは、この初対面のかたがたからの評価を聞いて職業としての大学人を辞めて親のそばで暮らそうと決心した。

わたしはその後も8年間、「趣味のような研究」を続けてきた。『大正十二年九月一日 帝都大震災大火災 大惨状』に収められた陸軍造兵廠東京工廠(旧称、東京砲兵工廠)の映るシーンでは、そのクリップ化を決めたサイト担当のとちぎさんもそこまでの細かな検討を求めてはいなかったろうが、撮影した場所(カメラの位置と被写体となっている瓦礫)を特定するためにそれまで一度も縁のなかった防衛研究所戦史研究センター史料室を訪れて『関東地方震災関係業務詳報 附表及附図』[注4]という東京造兵廠が作成した資料を閲覧し、わたしがそれまで「東京砲兵工廠」としてひと纏まりでしか認識できていなかった一つ一つの建物の名称や用途を把握することができた。兵器工場内の作業の流れや、こういう場所で働いていた人々が労働争議に立ち上がったのだななどと想像しながら史料を探るのが非常に楽しかった記憶がある。

決して目立つ作業ではなかったわたしの研究にご関心を持っていただき、また、その内容を各所へご紹介頂いた皆様には心から感謝をしている。

亡母にわたしの一世一代の仕事を見せられないのが残念である。

  • 東京市日本橋區役所編『新修日本橋區史下巻』(1938年)580頁。
    (国立国会図書館デジタルコレクション)
    https://dl.ndl.go.jp/pid/1685892/1/396
  • 東京市電氣局編『東京市電氣局震災誌』(1925年)34-36頁。
    (国立国会図書館デジタルコレクション)
    https://dl.ndl.go.jp/pid/981903/1/32
    https://dl.ndl.go.jp/pid/981903/1/33
  • 東京市日本橋區役所編『日本橋區史 參考畫帖 第一冊』(1916年)99頁。
    (国立国会図書館デジタルコレクション)
    https://dl.ndl.go.jp/pid/951555/1/68
  • 防衛研究所戦史研究センター蔵「東京造兵廠」1923年「関東地方震災関係業務詳報附表及附図 陸軍造兵廠小石川構内延焼過程図」「同、附表第三 建造物及器具機械災害調書」

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