100年前の資料を通して感じる関東大震災

室谷智子(国立科学博物館)

1923(大正12)年9月1日11時58分頃、神奈川県西部を震源[注1]とするマグニチュード[注2]7.9の地震が発生し、東京・横浜を中心とする関東周辺に甚大な被害をもたらしました。いわゆる「関東大震災」です。地震によって引き起こされた災害を含めた場合は「関東大震災」と呼ばれ、地震そのものの名称としては「関東地震」と呼びます。まもなく発生から100年を迎えるのを期に、各所で様々な取り組みが行われています。そんななか、2021年9月1日に「関東大震災映像デジタルアーカイブ」が公開されました。

私が初めて関東大震災の映像を見たのはいつ・どこでだったか覚えていませんが、大正の時代の、しかも震災後の混乱のさなかで、しっかりと映像が残っているということにすごく驚いたことを覚えています。今回このアーカイブサイトを拝見して、映画カメラマンが地震後すぐにカメラを持って飛び出し、ときに燃え盛る火の近くまで、混乱の中あちこちに出向いて撮影したことを知り、この様子を残さなければという彼らの使命感を強く感じました。当然カラーではなくモノクロの映像で、分かりにくい部分はあるのですが、がれきの山や焼け野原となった街の様子など、東京や横浜がこのような被害を受けていたのか、ということはよく伝わってきました。近年このような災害映像のアーカイブが増えてきて、誰でもいつでもどこでも見ることができるようになったのは、災害の継承や防災教育等の面でも、とても意義のあることだと思います。しかもこのアーカイブは、映像をそのまま公開しているのではなく、場所ごと、シーンごとに分類されていて、見たい目的のものをすぐに探すことができ、詳細な場所や撮影者などの情報も知ることができます。この編集作業は、とても大変なものだと思います。私は博物館の研究員ですので、来館者向けのトークや、大学生向けの実習などで、今度活用させていただきたいと思っています。

関東大震災の被害

関東大震災の被害は、死者・行方不明者約10万5千人、住家全壊焼失流失約29万3千棟という甚大なものでした[注3]。亡くなられた方のうち、約9万2千人は火災が原因でした。そのうち東京府での被害が、なんと6万6千人を超えており、次いで神奈川県の約2万5千人でした。そのほとんどが、東京市、横浜市[注4]に集中しました。この地震の震源は神奈川県西部だったので、神奈川県の方が東京府よりもゆれは強かったと思われ、住家全壊(焼失はのぞく)は神奈川県で約4万7千棟、東京府で約1万2千棟、全壊による死者数は神奈川県で約5,800人、東京府で約3,500人と、火災とは逆に神奈川県での被害の方が大きくなっています。
 なぜ東京で、こんなにも火災による被害が大きかったのでしょうか。関東大震災の前日まで日本には台風が来ており、関東地方を直撃していた訳ではなかったのですが、それでも地震発生当日は風が強かったうえに、地震が起きた時刻は午前11時58分でしたので、多くの家で昼食の準備をするなど火を使っていました。『帝都の大震災 大正十二年九月一日』を見ると、とても風が強く吹き、火が燃え広がっている様子がうかがえます。木造家屋が多かったこと、消火設備の不備や人手不足により、東京市(特に本所区や浅草区,日本橋区など隅田川を挟んだ地域)や横浜市の周辺は一面焼け野原となる大惨事となりました。上野や浅草周辺の避難の様子 (東京大震災6:22、東京大震災6:56)[動画1][動画2]に見られるように、布団や衣類(なかにはタンスごと)など燃えやすい物を載せた荷車とともに避難し、広い場所に避難民が密集している様子が分かります。このように歩くのもままならない状況で四方から火に囲まれたら、逃げることも難しいと思います。東京市本所区にあった被服廠跡(現在の墨田区横網町公園)(東京大震災28:23)[動画3]の広い空き地にも、多くの人々が荷車に布団や家財道具などをめいっぱい乗せて逃げてきたため、かなりの密集状態でした。そこに火の粉が飛んでくれば、風の勢いもあってあっという間に火は広がっていき、被服廠跡とその周辺だけで、なんと約4万4千人の命が失われてしまいました[注5]。地震が起きて避難するときには、必要最低限のものだけを持ってすぐ逃げる、渋滞を起こさないために車を使わない、などという現代の教訓につながっているでしょう。

動画1
映画題名
東京大震災
再生箇所 TC[in/out]
00:06:22:21/00:06:49:21
動画2
映画題名
東京大震災
再生箇所 TC[in/out]
00:06:56:17/00:07:06:22
動画3
映画題名
東京大震災
再生箇所 TC[in/out]
00:28:23:00/00:28:42:21

関東大震災の「画」の資料

2022年2月時点では東京市と横浜市の地震によるゆれや火災による被害をとらえた映像が主に公開されていますが、関東地震では津波も起こり、静岡県沿岸から神奈川県沿岸、房総半島南端にかけて数mの津波が到達しました。熱海や大島の津波の高さは10 mほどもあったといい[注6]、千葉県や静岡県でも、地震や津波による被害を受けています。それらの様子は、写真ではありますが国立科学博物館地震資料室 で公開しているので、ご覧ください。ほかにも、宮内庁書陵部所蔵資料目録・画像公開システム国立国会図書館デジタルコレクションなどで、関東大震災の被害写真に関する資料を見ることができます。映像と写真を比較しながらみることで。動画を残すことの重要性をより理解できるのではと思います。写真だと火の強さ、煙の多さは想像できても、風の強さは動画でないと分かりませんし、ずっと燃え続けている様を見ると、より現実的に感じます。
 震災の被害を伝える「画」の資料としては、映像、写真の他に絵画もたくさん残っています。多くの画家が震災の様子をスケッチしたようです。国立科学博物館が所蔵している資料には、写真(ガラス乾板やネガフィルム、プリント)や写真帖、画集、油絵などがあります。震災時には湯島聖堂内にあった東京博物館(現在の国立科学博物館)は、地震によるゆれには耐えたものの、のちの火災で全焼してしまいました。『關東大震大火實況』(關東大震大火實況 8:46)[動画4]に映っている「教育博物館」[注7]の標柱は、現在は国立科学博物館筑波研究施設の敷地内に移設されています[図1]。この震災の際、外部に貸し出していた資料以外は全て焼失してしまいました。職員は地震発生後、すぐに震災に関する資料を集め始め、その中には震災による被害を描いた油絵がありました。残念ながら作者は今のところ分かりませんが、当時の写真や映像がモノクロだったため、特に火災の様子など多彩な色で描かれた油絵は、災害のすさまじさを伝えています。例えば、宮城前(皇居前)の広場から燃える帝国劇場と警視庁を眺める避難民の様子を描いた油絵と写真をご覧ください[図2]、[図3]。構図がよく似ていますが、カラーで描かれていると、より迫力があります(強調して描かれているかもしれませんが)。関東大震災の絵画は、東京都慰霊堂や東京都復興記念館に多く展示されており、圧倒されます。

動画4
映画題名
關東大震大火實況
再生箇所 TC[in/out]
00:08:46:09/00:08:51:17
図1:今も残る「教育博物館」の標柱
図2:宮城前の避難民を描いた油絵(国立科学博物館所蔵)
図3:宮城前の避難民を写した写真(国立科学博物館所蔵)

報告書や論文に掲載するなど、資料や研究の目的があって撮影された写真は、場所が分かっているものがほとんどでしょう。しかし、博物館には寄贈や購入による個人の方が撮影した写真があるのですが、その場合、場所が分からないことが多いです。こういった映像や写真のアーカイブの公開によって、場所を特定する手がかりになるのではないかと期待しています。頑張って、1枚でも多くの撮影場所を明らかにしたいと思います。逆に、膨大な写真や絵画の情報から、映像の撮影場所の特定や検証も行えると思います。一方で、関東地震の写真や絵葉書では、いくつか合成されたものが見られるそうです。例えば、被服廠跡が焼け野原になる直前の避難民の様子の写真が使われた絵葉書がありますが、実際には宮城前の避難民の様子を被服廠跡の避難民と称して紹介したようです[注8]、歴史的に古い地震に関する資料を使う場合には、その信頼度や由来などをしっかり把握する必要があり、そこが研究の難しいところでもあります。

震災後には…

関東大震災からの復興の話も外せません。大きな被害を受けたことから、地震でも倒れない強い建物を作ろう、災害に強い街を作ろう、と国は復興に向けて動き出しました(帝都復興事業)。浅草の仲見世通りの建物はほとんど倒壊していました(東京大震災 17:50)[動画5]が、すぐに仮店舗が並び[図4]、焼け野原だった銀座も、百貨店などが立ち並び、人々で賑わう街へと見事な復興を遂げました。災害に強い街として復興した東京ですが、その頃からもだいぶ街の様子は変わっているでしょう。当時被害にあった場所が、地震後にどのように復興したのか、今はどうなっているのか、調べてみてはどうでしょうか。ちなみに国立科学博物館は、震災をきっかけに上野に移転しました。その時建てられた本館(今の日本館)は、なんと重要文化財に指定されています。

動画5
映画題名
東京大震災
再生箇所 TC[in/out]
00:18:05:17/00:18:25:23
図4:震災後の浅草仲見世の様子(撮影時期は不明。国立科学博物館所蔵)

関東大震災の被災地に存在した24件の建築物が、愛知県犬山市の明治村に移築されています(2022年2月現在)。例えば,日本赤十字社病院や帝国ホテルなどがあります。日本赤十字社病院は、地震のゆれによって全壊した建物があったものの、被害を免れた病棟もあり、火災にも巻き込まれなかったため、地震直後から多くの患者を受け入れていたようです(關東大震大火實況 クリップ「日本赤十字社病院における救護活動」)。実際の建物を見ていると、あのすさまじい関東大震災をくぐり抜けて、100年近く経った今も残っているのだという驚きをしみじみと感じます。

現在の都心を見ると、高層ビルが立ち並び、道路は多くの車が走り、地下には電車が縦横無尽に走り、歩道は人々が行きかっています。そんな東京や横浜、関東周辺がこの震災で大きな被害を受けていたことを想像するのは、なかなか難しいのではないでしょうか。しかし、10年前の東日本大震災の被害のすさまじさを、私たちは知っています。その様子を、今でも忘れられない人は多いでしょう。加えてこの映像アーカイブが、学術的な発見に加え、いつ起きるかは分からないけれど、将来確実に起こる大地震に備えるきっかけや災害の継承の一助となることを願っています。こういった被害を日本は繰り返し受けてきている、そしてそこから復興を遂げてきている、ということを忘れずにいたいと思います。

  • 震源とは、地中で地震の破壊が開始した場所。
  • マグニチュードとは、地震そのものの規模(大きさ)。
  • 諸井孝文、武村雅之「関東地震(1923年9月1日)による被害要因別死者数の推定」(日本地震工学会『日本地震工学会論文集』第4巻第4号、2004年)21-45頁。
    https://www.jaee.gr.jp/stack/submit-j/v04n04/040402_paper.pdf
  • 当時の東京市は、今の千代田区、中央区、港区、新宿区東部、文京区、台東区、墨田区南部、江東区西部、横浜市は今の中区、西区。
  • 中村清二「大地震ニヨル東京火災調査報告」(震災豫防調査會『震災豫防調査會報告 第百號(戊)』1925年)81-134頁。
    (東京都立図書館デジタルアーカイブ[TOKYOアーカイブ])
    https://archive.library.metro.tokyo.lg.jp/da/detail?tilcod=0000000006-00002428
  • 今村明恒「關東大地震調査報告」(震災豫防調査會『震災豫防調査會報告 第百號(甲)』1925年)21-65頁。
    (東京都立図書館デジタルアーカイブ[TOKYOアーカイブ])
    https://archive.library.metro.tokyo.lg.jp/da/detail?tilcod=0000000006-00002423
  • 「教育博物館」は、国立科学博物館の1877(明治10)年創立時の名称。
  • 沼田清「[資料]関東大震災写真の改ざんや捏造の事例」(歴史地震研究会『歴史地震』第34号、2019年)103-113頁。
    https://www.histeq.jp/kaishi/HE34/HE34_103_113_Numata.pdf

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