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分野の異なる研究者やクリエーターなど専門家による関東大震災映像の読み解きを通して、新たな発見と学びを得るためのガイドとなるコラムをお届けします。

関東大震災記録映像の撮影場所

―浅草十二階を手がかりに―
細馬宏通(ほそまひろみち) 早稲田大学文学学術院

国立映画アーカイブで公開されている(2022年1月16日現在)4本の映画『關東大震大火實況』、 『関東大震災[返還映画版]』、『帝都の大震災 大正十二年九月一日』、『東京大震災』は、関東大震災直後の生々しい映像を記録したものである。特に繰り返し映し出されるのは、猛火に襲われる家々、倒壊した建築物の跡や、そして上野駅や公園周辺などでごった返す避難民たちの様子だが、それだけでなく、通常は映し出されることが少ない各地での街路のありさま、震災後の暮らしを映し出すショットが多数含まれており、当時の街並みや生活を知るための貴重な資料にもなっている。

わたしは、1890(明治23)年に竣工し、この関東大震災で倒壊した浅草十二階について、かつて時間をかけて調べたことがあり、映画の中に何度も映し出される十二階の半壊した姿には胸が詰まるようだった。中でもはっとしたのが、『關東大震大火實況』の第四巻に収められている浅草十二階の爆破映像である。

十二階は震災によって、塔の上部と内部が壊れ、七階から八階までの壁面のみがしばらく残っていたのだが、9月23日、工兵隊によって爆破が行われ、瓦礫と化した。これを見物に行った寺田寅彦は、「LIBER STUDIORUM」という随筆で爆破の様子について子細に記している。

ぱっと塔のねもとからまっかな雲が八方にほとばしりわき上がったと思うと、塔の十二階は三四片に折れ曲がった折れ線になり、次の瞬間には粉々にもみ砕かれたようになって、そうして目に見えぬ漏斗から紅殻色(べんがらいろ)の灰でも落とすようにずるずると直下に堆積した。

寺田寅彦「LIBER STUDIORUM」[初出『改造』1930年3月号]

これまでも、この爆破の瞬間は資料映像や写真で観ることができたのだが、これら従来のものと比べても、『關東大震大火實況』では、思いがけないほど間近で鮮明に撮影されており、工兵隊が爆薬を仕掛ける過程もはっきりとわかる。何より目を惹かれたのは、爆破前、十二階の内部から空を見上げるように映したショット(42:13~)[動画1]である。十二階は浅草名所として多くの写真や絵はがきに映されているが、閣内が撮影には暗すぎたからだろうか、往時の内部の様子を映した写真はほとんど残っていない。それが映画では、震災で上部が壊れ、陽の光が差し込むようになったために、ぽかんと開けた筒穴として映し出されている。なんとも言えない気分になった。

動画1
映画題名
關東大震大火實況
再生箇所 TC[in/out]
00:42:13:15/00:42:17:10

大きな都市災害を記録した映像では、都市のいたるところが被写体となるため、普段は撮影されることのない街路にカメラが据えられる。そのため、建物や街が思わぬ角度から映し出される。ここはこんな風になっていたのかと驚かされることも多い。

たとえば『関東大震災[返還映画版]』の2:57からのショット[動画2]がそうだ。画面の右奥には浅草花やしきらしい白い建物が写っている。ということは、画面中央で放水が行われているのは、現在のひさご通りの角になる。当時ここには天ぷら屋があった。わたしは何かの談話記事で、震災直後に天ぷら屋の二階から火が出た、というのを読んだ記憶があるのだが、映像はそのことを傍証している。一方、画面の左手前には、道路に向かって竿がいくつも掲げられており、門構えの上にいくつか額がかかっている。よく見ると「十二階」という文字らしきものも見える。手元の十二階絵はがき[図1]と見比べると、どうやらこれは、当時十二階の南、ひょうたん池に面して建っていた十二階の門であり、竿はおそらく、十二階に隣接する劇場の出演者の幟を立てるためのものである[図2]。映像には映っていないがおそらくカメラマンの右手には六区の通り、そしてかつてのひょうたん池(現在のウインズ浅草とユニクロ浅草店あたり)が広がっていたはずである。

動画2
映画題名
関東大震災[返還映画版]
再生箇所 TC[in/out]
00:02:57:10/00:03:05:19
図1:絵はがき「東京浅草十二階」。撮影は大正3-6年頃。手前がひょうたん池。
図2:図1を拡大したもの。十二階劇場の門前に幟が並んでいるのがわかる。

図1がそうであるように、名所絵はがきや写真では、観光客用に写真映えのする位置から撮影されるため、同様のアングルが取られることが多い。十二階の場合だと、南南東にある「ひょうたん池」越しに、湖面に映る浅草六区の様子とその向こう側に建つ十二階の姿を映す、というのが定番なのだが、その門前がこのようになっていたとは、この映画を観るまでは知らなかった。

4本の映画では、他にも十二階が撮影されているショットが複数あるのだが、定番のひょうたん池越しの映像は一つだけで、残りはいずれも異なる場所から撮影が行われている。もし、十二階を目印として、これらの撮影箇所がわかったなら、浅草周辺の街並みや被害状況について、何らかの手がかりが得られるのではないだろうか。

では、これら十二階の撮影はどの位置から行われているのか。

じつは十二階が映っている映像の場合、どの方角からどの方面を撮ったものかを特定するのは、比較的容易である。というのも、十二階の底面は正八角形で、しかも各面が北・北東・東・南東・南・南西・西・北西を向いており、一種のコンパスの役割を果たすからである。ただし、方角を区別するには、それぞれの面の特徴を知っていなければならない。いささか細かい話になるけれども、以下に、映像で観ることのできる特徴を記しておこう。

まず、わかりやすい手がかりは玄関である。開館当初、南東面は玄関で、二階部分には縁台が据えられ、三階部分から縁台の上に乗ってあたりを見物できる仕組みになっていた。縁台は1894(明治27)年の地震で壊れたため取り外されたが、その跡は残されたため、縁台のあった二階部分はふさがれ、三階部分には二つ窓の代わりに一つ窓が設えられている。この特徴から、南東面は他の面とはすぐに区別がつく[図3]。

もう一つは、半壊した十二階の壁面に走る白い線である。これはおそらく先に述べた十二階劇場の屋根の跡だろう。十二階はもともと独立した塔だったが、1911(明治44)年、塔に隣接する形で演芸場ができた。最初は小屋がけの小さなものだったが、次第に増設され、塔の横にくっつく形になった。劇場は震災のため焼失してしまったが、残った塔の三階から四階の壁面には、その跡らしき白い稜線が南面を頂点とした屋根型に走っている[図3]。

図3:絵はがき「浅草十二階」。震災後に発行されたもの。右側は南東面。二階が塞がっており、三階が一つの出入り口になっている。正面は十二階の南面。白い稜線が四階付近で頂点をなしている。

広告看板の跡も手がかりとなる。1923(大正12)年、くしくも震災の年の5月に、福助足袋の看板が十二階の南面と西面に、「十二カイ」の四文字が北面と東面に掲げられた。十二階は名所絵はがきや観光写真の題材として取り上げられることが多かったから、看板を掲げればそこに映り込むことができる。ちょうど、現代のスポーツ中継などが行われる競技場に広告が掲げられるのと同じことで、昔からメディアで取り上げられやすい場所には広告がつきものだったのである。当時、十二階は劇場の収入をもってしても経営難が伝えられていたから、看板の広告料はよい収入源となったことだろう。しかし、この福助足袋と「十二カイ」の大看板は震災によって崩れてしまい、北面・東面・南面には看板を支えていたであろう鉄線のみが残り、西面には裏返しになった福助の看板がぶら下がった。映像にはこの巨大な看板がしばしば映り込んでおり、西面だとわかる。

塔の上部が写っている場合は、その形も重要な手がかりである。ここまで挙げた三つの手がかりをもとに半壊した塔の形を見ると、南面・南東面・東面は八階までが残り、残りの面は七階までが残っていたことがわかる。また、南面と南東面の間にある柱がいっとう高く突き出ており、これもわかりやすい目印となる[図4]。

図4:震災後、9月23日までの十二階の残骸の特徴。

十二階が建っていた位置も、現在ではかなり正確に分かっている。1981(昭和56)年7月に当時浅草2丁目13番地の北端に建っていた店舗の改築に伴う発掘調査で、十二階の西面、および北西面の一部が発掘された。また、2018(平成30)年2月には、その東向かいの建物が解体され、基礎工事現場から北東面と東面の基礎の一部が現れた[図5]。これらのことから、十二階は現在の親疎通りの南側、浅草2丁目13番地と14番地の北端にまたがるように立っていたことが分かる[図6]。

図5:2018年2月に見つかった十二階の基礎部分と煉瓦(著者撮影)。
図6:十二階の位置と各映像の撮影場所(推定)。

以上で、十二階の示す方位と位置はわかった。これらの手がかりをもとに、いくつかのショットのカメラ位置を検討していこう。

たとえば『關東大震大火實況』の爆破前のショットは(41:04~)[動画3]花やしきの敷地あたりから映されたものだろう[図6A]。先に挙げた寺田寅彦は、「準備が整って予定の時刻が迫ると、見物人らは一定の距離に画した非常線の外まで退去を命ぜられたので、自分らも花屋敷の鉄檻の裏手の焼け跡へ行って、合図のラッパの鳴るのを待っていた。」と記しているが、寺田寅彦が観た爆破前の十二階も、おおよそこのような景色だったと考えられる。

動画3
映画題名
關東大震大火實況
再生箇所 TC[in/out]
00:41:04:07/00:41:09:09

一方、爆破の瞬間(42:17~)のショット[動画4]は、当時の十二階の北西、現在の国際通りに面した萬隆寺付近から撮影されたものと考えられる[図6B]。また、爆破後に残った柱は、東面と北東面の間のものと思われるので、42:42~のショット[動画5]は瓦礫との相対位置からすると、西南西方向から撮影されたと考えられる。このようにカメラ位置を検討していくと、いっけん一続きのできごとに見える映画の爆破場面は、じつはいくつもの異なる視点から撮影された映像を組み合わせたものであることがわかる。

動画4
映画題名
關東大震大火實況
再生箇所 TC[in/out]
01:42:17:11/01:42:41:14
動画5
映画題名
關東大震大火實況
再生箇所 TC[in/out]
00:42:41:15/00:42:51:03

カメラ位置が十二階から離れている場合、そこには手前の街並みの被害状況も映り込んでいる。たとえば、『関東大震災[返還映画版]』の11:52~[動画6]には遠く十二階を映したショットがあるが、十二階の南面が見えていることから、塔の南に広がる浅草六区を映したものだとわかる[図6C]。東京でも屈指の繁華街であり活動写真館や浅草オペラの劇場が並んでいた六区の街並みが、見る影もなく瓦礫と化してしまった。撮影隊はその様を記録するべく、このショットを撮影したのだろう。

動画6
映画題名
関東大震災[返還映画版]
再生箇所 TC[in/out]
00:11:51:23/00:12:06:04

塔が映っていないショットのカメラ位置もわかることがある。たとえば、『帝都の大震災 大正十二年九月一日』のあるショット(5:22~)[動画7]には遠く十二階が映っているが、おぼろげなその形からすると、見えているのは塔の西面であり、手前の街路は現在の親疎通り沿い、西浅草3丁目付近と考えられる[図6D]。このショットに「冷蔵函」と記された店の壁が映り込んでいるのが目を惹くが、これは当時の冷蔵庫の宣伝文字である。

動画7
映画題名
帝都の大震災 大正十二年九月一日
再生箇所 TC[in/out]
00:05:31:20/00:05:41:16

ところで、『関東大震災[返還映画版]』で激しく燃える家々が映されているショット(2:15~)[動画8]を見ると、同じ「冷蔵函」と記された店の壁が映されている。十二階は映っていないが、同じ宣伝文字が映り込んでいることから、先のショットと同様、カメラ位置は親疎通りの南側、西浅草3丁目であることがわかる[図6E]。

動画8
映画題名
関東大震災[返還映画版]
再生箇所 TC[in/out]
00:02:14:22/00:02:20:09

以上、浅草十二階を手がかりとして、4本の映画に映されたいくつかのショットについて、カメラ位置の特定を試みた。このようにして関東大震災を記録した映像の場所を特定することは、震災の被害がどの場所でどのようなものであったかを知るための大事な一歩となる。この小文では、十二階に関する歴史的知識を援用してその方法を記したが、他の建築物についても、その外観や構造に詳しい人が観たならば、街並みについて多くの手がかりを得ることができるだろう。

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