記録された消防活動

鈴木淳(東京大学大学院人文社会系研究科・文学部)

関東大震災の時、「消防は何をしているのだ」という声が幅広く聞かれたという。しかし、震災を記録した映画には消防隊の活動がしっかりと記録されている。

当時の東京の消防を担当していた警視庁消防部が、従来の馬が引く蒸気ポンプをポンプ自動車に改め終え、不忍池のほとりで25台のポンプ自動車が一斉放水を行なって市民にその力を誇示したのは1921年の出初式であった。震災まで3年近く、火事には消防自動車という形は定着していた。出火の覚知は1918年に電話による通報が半数を超え、繁華な街角に設けられた火災報知器がそれを補っていたので、市民は火事を通報して避難し、警察官が張る非常線の外側で消防隊の活躍を見守るのが常だった。しかし、関東大震災の際には電話が不通になり、望楼などで火災を覚知して出場した消防自動車も水道の断水で自然水利に頼らざるを得ず、活動が限られた。発震直後に多数の火災が生じたため消防自動車が姿を現さなかった現場も多く、家を失った人々の不満を招いた。

『關東大震大火實況』の3分7秒あたりに始まる「消防隊が必死の努力も一閃の火焔に消えて―帝室林野管理局-」の動画[動画1][動画2]は、東京駅正面の現在の和田倉門内にあった帝室林野管理局の火災に対する皇宮警察部の活動を示す4つのカットからなる。皇宮警察部は皇室関連施設での警察・消防業務を行っていたので、宮城(今の皇居)外苑にあったこの建物の消防に出動した。最初のカットに登場するのは警視庁消防部では過去のものとなった蒸気ポンプである(A。[図1]にプロット、以下同じ)。皇宮警察も1920年に1台の消防自動車を導入したが、蒸気ポンプも残していた。皇宮警察の自動車ポンプ隊は、地震発生後まず主馬寮の火災に出動し、消火の後に12時30分に帝室林野管理局に向かったが、火が天井裏に広がって消火できなかったため、蒸気ポンプを応援に向かわせたと『皇宮警察史』(皇宮警察本部、1976年)[注1]に書かれている。同書によれば、2時前には本館の防御を断念して本館東側にあった食堂などの附属建物の防御に転じ、近衛兵の応援を得て渡り廊下を破壊し、午後5時50分に鎮火に至った。この画像では本館西側から放水しているので、防御方針の転換前であり、本館が概ね焼け落ちて、蒸気ポンプが放水を開始しているから1時半前後の撮影かと思われる。

動画1
映画題名
關東大震大火實況
再生箇所 TC[in/out]
00:03:07:08/00:03:17:23
動画2
映画題名
關東大震大火實況
再生箇所 TC[in/out]
00:03:18:00/00:03:37:22
図1:撮影場所を地図上にプロット

付図の出所は、文部省震災豫防調査會編『東京市火災動態地圖 大正十二年九月大震災』(1924年)[注2]

最初のカット[動画1]では、蒸気ポンプと制服の皇宮警手6名がとらえられ、1人は燃料をくべている。手前には石炭か木炭が入っているらしい俵が、担ぐのに用いたであろう棒と共に置かれている。左手では吸管が桔梗濠に降ろされ、ホースは右手に伸びる。続く第2のカットは、帝室林野管理局の正面玄関付近での放水である(B)。放水者の足元には右手、南側に延びるホースがあるので、さらに南側か建物を回り込んだ西側からも放水されていたことがわかる。太い柱のように立ち並んでいるのは暖炉であり、炎上前は木造2階建ての屋根の上に開口していた。2階部分はほぼ焼け落ち、強い南風で、煙はもちろん、放水も流されている。第3のカットは自動車ポンプである。左手の桔梗濠に吸管を降ろし、制服の警手のほか3名の隊員が活動している。ホースは2本が手前から右手に伸びている(C)。ついで第4のカット[動画2]では、カメラは再び放水作業を捉える。ここでは伝統的な刺し子頭巾を被った防火衣の二人が筒先を握る。そしてカメラはもう一本のホースを追って南に向きを変え、玄関前の、多分は2番目のカットで捉えられていた放水者に至るあたりで終わる。ぼんやり見ていると、蒸気ポンプ、その筒先、自動車ポンプ、その筒先という説明的な映像と感じられるが、実は蒸気ポンプ、自動車ポンプの筒先、自動車ポンプ、蒸気ポンプの筒先という順番である。最後のカットの刺し子姿の2人が持つホースはもう一本のホースと交差するとき上側にあり、後から延ばされた蒸気ポンプのものであることが明らかだ。もしかすると最後のカットの続きの部分が2番目のカットかもしれない。

皇宮警察部の皇宮警部・警手には消防専務者が置かれていたが、このほか消防夫も雇用されて隔日勤務で見張りや巡回を行っていた。自動車ポンプの筒先は警手が持つことになっていたので、2番目のカットで筒先を握るのは警手なのであろう。一方、あとから応援に出た蒸気ポンプの筒先を握っていたのは刺し子頭巾を被る消防夫である。消防専務の皇宮警手の制服は警察任務にあたる警手より裾が短く、サイドベンツになっていた。その目で見ると蒸気ポンプと共に映る6人の警手のうち4名は消防専務だが燃料を投じている1名を含む2名は応援の一般警手のようだ。皇宮警察としては唯一の消防自動車を派遣しただけではなく、他部署から応援を出して、この消防活動に力をいれたことがうかがえる。

しかし、強風にあおられた火の粉は北側に降り注いだ。そのため、午後2時半には大手門に飛び火して、警手と近衛兵がようやく消し止めた。次に内務省が燃え上がったため、2時50分には自動車ポンプがそちらに転じ、午後3時には和田倉門で出火したため、蒸気ポンプからホースを一口延ばして消し止めた。しかし、内務省の火災は消し止められずに大蔵省に延焼し、大手町一体の官庁街を焼失することになった。帝室林野管理局は周辺を濠と広場で囲まれ、ポンプ周辺の通行人も一見平静である。すでに建物が焼け落ちかけ、隣接する建物がないため消防活動が無駄なようにも感じられるが、このような結果から見れば、記録されている放水は、少なくとも飛び火の発生を軽減し、遅らせる意味があった。

帝室林野局の炎上は有楽町方面からの飛火によるものであったとの観察がある(井上一之「帝都大火災誌」[震災豫防調査會編『震災豫防調査會報告 第百號 戊』1925年])[注3]。有楽町方面の火は発震直後に生じて、警視庁まで燃え広がった。警視庁は午後2時30分に本館屋根裏一面に火を発し、3時20分に全焼する(警視廳消防部編『大正十二年九月 帝都大正震火記錄』、1924年)[注4]。『關東大震大火實況』5分45秒あたりからの「一炬乃烟となり果てんとする帝國劇場」は馬場先門跡からこの間に警視庁からの飛び火で延焼した帝国劇場と、その右手で燃え続ける警視庁とを捉えている(D)。この画像からは警視庁では少なくとも2口のポンプ自動車による放水がなされていることが伺える。帝室林野管理局には少なくとも3口、警視庁では2口の放水が、濠の豊かな水と複数の動力ポンプを用いてなされたが、燃え始めた建物の全焼を防げず、飛火による延焼を食い止めることもできなかった。皇宮警察部や警視庁が重視して消防力を振り向け、濠という水利に恵まれていても、大規模な建物の火災に対応できるだけの力はなかった。飛火による延焼も続き、他の地域に赴く余裕はなかった。しかし、火に追われて宮城前の広場に避難してきた人々は、自分たちの町には来なかった消防自動車が複数活動していることを見て、別の感想を抱いたかもしない。

 

警視庁消防部は、消防自動車による常備消防の外、予備消防として、江戸時代の町火消の伝統を引く消防組を管轄していた。しかし、東京に水圧のある近代水道が開通した1899年以後、消防組の主な装備は水道消火栓に直結して放水するためのホースと筒先を積んだ手引き水管車となっていた。そこで、関東大震災では水道の断水により、ほとんど活動できなかった。『關東大震大火實況』の「神田・神保町附近」のうち4分50秒から5分あたりのカット[動画3]で、市電1460号の右側には第三消防署所属の消防組の防火服装をした2人が、延焼になすすべがないという様子で立ち去るところが捉えられている。蒸気ポンプと同様に一時代前の腕用ポンプを装備から外すという、警視庁消防部の最新技術一辺倒の姿勢がもたらした光景ともいえる。

動画3
映画題名
『關東大震大火實況』
再生箇所 TC[in/out]
00:04:49:09/00:04:59:05

そのような中で、『関東大震災』[返還映画版]の2分57秒からのカット[動画4]には、驚かされる。ここでは、明らかに消火栓に直結したホースとわかるものを含む、2口の放水が、2階、3階に届く高さで行われている。少なくともこの時点では、消防組が通常通りの活動を行っているようだ。発災直後にある程度利用できた消火栓が存在したことは文字資料でも確認できる。浅草は低地のため、水道管にかなりの水圧が残っていたのであろう。細馬宏通氏はコラム「関東大震災記録映像の撮影場所―浅草十二階を手がかりに―」の中で、このカットで放水されている木造三階の建物が浅草公園北側の十二階近くにあって瓢箪池に面していたことを解明された。「東京市火災動態地図」で見ると、このあたりは北西の十二階下からの延焼で9月1日の午後1時までに焼失している。撮影後1時間ももたなかったことになるが、当時は強い南風が吹いていた。街並みの南端で公園に面していたこの建物が発震直後に炎上していたら、十二階下からの延焼に追われた人々の避難は困難を増したであろう。重要な時間に公園への避難路を確保した点で、この消防活動は価値あるものであったと思われる。そして、この事例からすれば、消火栓を開いてみないと十分な水圧があるかどうかわからないのであるから、多くは徒労となったにせよ、消防組員たちが水管車を引いて近くの出火場所に向かったのは、なすべき事だったとわかる。管見では文字資料でこの消防活動を記録したものはない。貴重な情景を記録した撮影者に敬意を表したい。一方で、この動画により、関東大震災の際に水道消火栓直結の放水が十分に機能した、との印象を持たれることは災害教訓の継承の観点からすれば危険である。十分な水圧が得られた消火栓は例外的で、消火栓が使えた時間も限られた。地震動で水道管が破壊される事態に備えた準備が必要だったことが、関東大震災時の消防活動が残した最大の教訓である。

動画4
映画題名
関東大震災[返還映画版]
再生箇所 TC[in/out]
00:02:57:10/00:03:05:19

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