目の記録、聞こえない声―関東大震災の映像記録によせて
関東大震災映像デジタルアーカイブを通覧して、これらの映像によって、1923年9月1日の震災を経験した人びとの姿が、その表情やまなざしの訴える気配とともに残されたことに強い印象を受けた。映像の記録は、目に見えるイメージと時間の経過が生み出す小さなエピソードの集積によって作られる。あれほどの震災を受けて、東京の街がどのように崩壊したか、人は何を思い、どう行動したのか。二度と繰り返すことのない、エピソードの無数の集積が、あの震災を形作った。カメラマンはその一瞬一瞬と、どのように向き合い、何をフレームに収めるか、そのことに全神経を集中したに違いない。その一瞬に彼らの培ったすべての感性と技量が賭けられる。計算して撮れるものなど、とうに越えている。無意識さえも動員した決断の集積によって、100年先の未来に、のちに「関東大震災」と呼ばれることになる出来事の一部が届けられた。その出来事が確かにあったと証拠立てるもの―記録の集積としか呼べないものがそこにある。わたしたちは、どうしてもこれを守らなければならない。そして、何を学べるか、考えるときである。
この震災が、映像、写真など、あふれるような視覚的イメージの氾濫によって特徴付けられるとすれば、それから21年半後に起きた東京大空襲は、反対に「視覚」を奪われた、戦争による巨大都市災害だった。東京大空襲の視覚的記録は、警視庁カメラマン・石川光陽による写真をはじめ、ごく限られたものしか残されていない。代わりに、出来事から四半世紀後、民間の東京空襲を記録する会によって収集された「体験記」が本として刊行され、そのイメージを形作った[注1]。一筆一筆、書き溜められたその膨大な原稿が、江東区に所在する東京大空襲・戦災資料センターに保管されている。ここ数年は、ちょうどその原稿をデジタル化し、読み解く作業に没頭してきた。体験記には、人びとの言葉だけがあり、風景はない。対照的に、燃え尽き壊れゆく都市の風景と人の姿だけがあり、言葉は聞こえない、サイレントの震災の映像記録。それゆえに、カメラをまなざす目のメッセージと、聞こえない声の向こう側に細心の想像力を働かせ、記録されたエピソードの一つ一つをていねいに読み解いていくこと―それが映像記録に向き合う基本のメソッドになるだろう。
関東大震災の映像が、記録という視点で集められたとき、その集積は、東京が内蔵するヴァルネラビリティ(vulnerability)/災害脆弱性を指し示す資料になる。一例として、『關東大震大火實況』(以下、『實況』と略)を見よう。『實況』は、「製作・撮影監督 文部省社会教育課、撮影 東京シネマ商会」のクレジットの下、製作された。全体は5巻からなるが、ここでの議論は、直後の被災状況を描いた第1・2巻に限定する。この部分の撮影は、9月1日については芹川勢三、2日以降は白井茂と推定される。白井は、のちに震災から5日目ごろまでの行動を回想記に語り残している(『カメラと人生―白井茂回顧録―』1983年[注2]、『キネマを聞く 日本映画史の証言者30人』1994年[注3])。また、この時、東京シネマ商会の撮影に同行した雑誌『婦女界』の記者・高尾謙一による記事がある。その記事は、同誌の1923年10月号に掲載された[注4]。公開された映像とこれらの撮影記録、既存の文書資料を照合することで、震災時の火災とそれに反応する人の流れ、犠牲者の発生状況などの関係を推測できる。
はじめに、『實況』00:03:45-00:04:11の「火災炎上中の神田方面を望む」場面を見よう。九段坂から坂下の神保町方面を見下ろす場面である。坂下に続く大通りの右手(南側)奥から巨大な煙が立ち昇り、手前の堀端(牛ケ淵脇)の空地に大勢の人びとが避難している。位置から見て、その火元は今川小路一丁目あたりと推定される。高尾の記事によれば、この場所は二重橋を目指した撮影班が、最初に下町方面を見渡したところで、時刻は9月1日の「午後三時前」とある。「東京市火災動態地圖」(『震災豫防調査會報告 第百號(戊)』所収。以下、「火災動態地圖」と略)[注5]によると、この地区は神田区で最も早く出火した一画で、映像で見えるあたりの出火時刻は13~15時ごろ。この時刻は、高尾の記述とほぼ一致する。
もう一つ、『實況』00:05:15-00:05:25の「吾妻橋から大日本麦酒工場の火災を見る」場面を見よう。吾妻橋・浅草側の広場に避難民が集まり、隅田川の対岸・本所側の大日本ビール工場が猛火に包まれるのを眺めている。高尾の記事では、その時刻は午後3時から4時の間ごろ。「火災動態地圖」によれば、広場のあたりが燃えるのは夜の8時から2日0時ごろにかけてであり、他方、対岸のビール工場が燃えるのは午後3時から4時の間なので、これも高尾の記述とほぼ一致する。
この二つの場面は、関東大震災全体を語る上でも、重要なシーンを捉えたものだった。神田区の今川小路周辺は、1件ずつの犠牲者は少ないが、その箇所が何件も積み重なって、結果として多くの犠牲者を出した地区、大日本ビール工場周辺は、すぐ北隣の枕橋際で、この一か所から約160人の犠牲者を出した地区と重なる。映像を見ると、当時の東京には江戸以来の水路が物流・経済のインフラとして残り、川岸・堀端の多くは空地になっていた。公園の少ない中、多くの人びとは大通りや川岸・堀端を目指して避難し、どの映像を見ても、それらの空間が避難民で溢れている。「火災動態地圖」で、今川小路を含む神田区西部を見ると、広い空地は牛ケ淵を含む堀端しかなく、堀端と反対方向の神保町界隈では、今川小路とほぼ同時刻に火災が多発し、地区一帯を火災が飲み込んでいる。この地区では、早いうちに堀端、あるいは、九段坂を上がって牛込方面に抜けた人は助かったが、逆方向に進んだ人、あるいは、取り残された人たちの多くは、空地がないため、個別分散し、火に追い込まれて焼け死んだのではないか。
本所区の枕橋際も、南側に大日本ビール工場、北側に徳川邸がある、北十間川の川岸である。この周辺の出火は1日15時以降だが、西側が隅田川、北側が徳川邸で仕切られたところに、南側と東側から火災が襲いかかっている。約4万4000人が亡くなったとされる被服廠跡[注6]ほどではないが、同じような仕組みで、避難した人びとが集団死したのではないか。枕橋周辺では、焼死者をさらに上回る数の人びとが溺死している。「大正十二年九月震火災ニ因ル死者分布圖」(『震災豫防調査會報告 第百號(戊)』所収)[注7]を見ると、本所区・深川区では、ここ以外にも100人以上が1か所で焼死・溺死したスポットがいくつも連なっている。
1970年代、地形学者・貝塚爽平は関東大震災における火元の分布と住家の全壊率、下町の土台を作った沖積低地の関係を論じて、全壊率の高い地区は、隅田川以東の沖積層の基底が-20m以深の地区、あるいは、「丸の内谷」と呼ばれる約2万年から1万年前に形成された沖積層の基底が窪んだ地区(埋没谷)と一致すると指摘した(『東京の自然史 増補第二版』)[注8]。沖積層の基底が深いとは、それだけ川が土砂を堆積した軟弱地盤が厚いことを示し、引いては、地震発生時の揺れが大きく、倒壊家屋の集中から火災の多発を引き起こしやすい。その軟弱な土砂を運んだ河川の河口部に依拠して、この都市が成り立っており、さらにその地盤が、沈み続ける南海トラフと日本海溝という、プレート境界から至近の岩盤に載っている。
貝塚によれば、江戸時代、地盤の悪く低湿な土地は、湿地や水田のところが多く、市街地にはならなかった。ところが、近代の開発は近世まで保たれてきた、自然と人間の微妙なバランスを変えた。そこに、大震災が襲いかかった。関東大震災には、東京の近代化・開発が引き起こした災害の側面がある。
東京は壊れやすい/ヴァルネラブルな(vulnerable)都市である。しかし、東京の風景のなかに立つとき、その印は見えにくい。それは、脆弱性が消えて、「ない」ことを示すのではない。厳然と「ある」にもかかわらず、街並みと情報に埋もれ、意識しにくいものになっているのだ。デジタルアーカイブの映像を再生すると、意識の深いところで、何かがざわめきはじめる。それは、彼らと同じ東京を生きているにもかかわらず、どこかでその存在を忘れていること、いつの間にか、「震災」がなかったかのように生きている自分が、無言のノックを受けているように、感じるからなのだろう。
ウェブサイト上の映像を開き、再生と巻き戻しを繰り返しながら、関東大震災の映像記録とは、いくつもの空白を抱えながら、「中断」されたプロジェクトなのではないかという印象が残った。「震災」として感覚される出来事の出発点に、地面をゆらす巨大な振動があった。その後、軟弱地盤の低地を中心に建物が倒壊し、火災が多発した。ところが、重い装置とその運搬を必要とする映像記録において、これらの最初の瞬間―立っている大地が揺さぶられる経験、そこにいた人びとの恐怖は映らない。関東大震災の映像記録は、後追いで撮影された地割れ、土砂崩れ、壊れた建物、火災の映像から唐突に始まる。
さらに、カメラマンたちの足取りは、皇居と隅田川に挟まれた地域を中心に動く。撮影の目標は、二重橋、皇居前広場、東京駅、丸の内、銀座、日本橋、須田町、万世橋駅前、上野の山、浅草、十二階―これらのシンボリックな風景の軸線に集中する。東京市全体で約85%の犠牲者を出した江東低地の本所区・深川区については、延焼中、隅田川の対岸もしくは船上から撮影した火災の風景と、鎮火後に訪れた被服廠跡、そこでの焼死体の山の映像にほぼ限定されてしまう。
白井の回想記によれば、直後の撮影は9月5日までで一旦休止した。また、白井たちとは別の日活カメラマンのグループ(髙坂利光など)の場合、4日まで現地で撮影し、その後、日暮里から京都に移動して、現像を開始している(髙坂利光「ホーヱル機を肩にして 大震災實况撮影の苦心」)[注9]。震災発生から「5日間程度」が直後の状況を撮影する一つのタームになっていたと推定できる。この5日間とは、流言飛語の流行から朝鮮人などの殺傷へとエスカレートする社会崩壊がピークに達した時期と重なる。この期間に、カメラが回っていたことの意味は重い。編集された映像に殺傷の場面こそないものの、白井たちのカメラは、戒厳令下、銃剣を持って街角を警備する兵士や道行く人を検問する自警団の姿を捉えている。それから60年後、カメラを向ける自分たちに、撮られる側の人びとから「殺してしまえ」という言葉を投げかけられた体験を、白井は回想記の中で明かしている。サイレントの映像に、その声は響かない。向こう側を過ぎていく人びとの目線に、この瞬間の不安と緊張した空気が凍結されている。
『實況』第3巻では、政府・軍・警察などにより行われる「救護、保安、復旧の努力」の流れの中に、「自警團」の字幕と映像が登場する。「説明台本」によれば、そこで想定された弁士のナレーションは、「幸いに火災を免れた、山の手方面では自警團を組織して、一時混乱の為め手薄となつた警察力を補ひ、一面には火の用心等の警備に従事した」[注10]である。このシーンが終わるとすぐ、場面は「挙國一致博愛 救護の熱情 ―芝浦海岸―」に移っていく。『實況』は、震災の年の10月から、文部省社会教育課の配給で、全国を巡回した。地方で生活する人びとは、自警団のシーンを見ても、虐殺事件との関係を感じとることはできなかったのではないか。
一連の映像記録のあと、デジタルアーカイブの一点として、同じく公開されている映画『帝都復興』を見た。この映画は、1930年、東京の震災復興を祝う天皇の巡幸(3月24日)と帝都復興祭(3月26日)に合わせて、復興局が復興事業の全貌とその成果を広める目的で、製作したものである。107分におよぶこの映画は、関東大震災を描く「震火災編」のパートではじまる。「一九二三年九月一日」の字幕のあと、突然、都心の大通りの風景が回転を始め、演出と役者による演技で、震災の発生が描かれる。その演出された創作映像と切れ目なしに、カメラマンたちが撮影した本物の映像記録が、断片的に引用される。やがて、政治家たちが参列する震災犠牲者の追悼式典となり、場面は「計畫編」に移っていく。ここには、実写映像を利用して、震災を「物語る」行為はあっても、震災後の風景や人びとの姿を「記録」し、この出来事が何であるかを理解しようとする営みは消えている。
震災から6年半を経て、カメラマンたちが撮影した映像記録は、一旦、歴史の地層のなかに埋没させられたのだと思った。その地層の一端が、関東大震災映像デジタルアーカイブによって、掘り起こされた。わたしたちは、もう一度、震災と向き合わなければならない。人びとの目が放つメッセージ、サイレントの背後で充満する声に、耳を傾けるときである。
謝辞 本稿を作成するにあたり、国立映画アーカイブのとちぎあきら氏による資料提供を受けました。また、田中傑氏の監修によるクリップ映像の解説を参照しました。記して感謝します。
- 東京空襲を記録する会が収集した東京空襲の体験記については、以下を参照。
報告書 山本唯人編『空襲体験記の原稿を読み、継承する―東京空襲を記録する会・東京空襲体験記原稿コレクションのデジタル化とその読解』(戦災誌研究会、2022年)
(科学技術振興機構 researchmap)
https://researchmap.jp/blogs/blog_entries/view/99310/a3fb7dea676fdaf3e30b64143a499b8a?frame_id=698083
企画展「空襲体験記を読む、一冊に編む―東京空襲を記録する会が収集した空襲体験記の<原稿>展」の紹介(2022年)
(科学技術振興機構 researchmap)
https://researchmap.jp/blogs/blog_entries/view/99310/77324fafac1231270307540481d3eb69?frame_id=698083 - 白井茂『カメラと人生―白井茂回顧録―』(ユニ通信社、1983年)
- 日本大学芸術学部映画学科編集委員会編『キネマを聞く 日本映画史の証言者30人 PART 1』(江戸クリエート、1994年)104-118頁。
- 高尾謙一「大震災中决死的視察の涙の記」(『婦女界』十月號 関東大震災寫眞実記、婦女界社、1923年)9-16頁。
- 「東京市火災動態地圖」(震災豫防調査會『震災豫防調査會報告 第百號(戊)』1925年)
(東京都立図書館デジタルアーカイブ[TOKYOアーカイブ])
https://archive.library.metro.tokyo.lg.jp/da/detail?tilcod=0000000006-00002428 - 諸井孝文、武村雅之「1923年関東地震における死者発生のプロセス―1855年安政江戸地震との比較をふまえて―」(歴史地震研究会『歴史地震』第21号、2006年)47-58頁。
(歴史地震研究会誌「歴史地震」)
https://www.histeq.jp/kaishi/HE21/P047-058.pdf - 警視廳建築課作「大正十二年九月震火災ニ因ル死者分布圖」(震災豫防調査會『震災豫防調査會報告 第百號(戊)』1925年)
(東京都立図書館デジタルアーカイブ[TOKYOアーカイブ])
https://archive.library.metro.tokyo.lg.jp/da/detail?tilcod=0000000006-00002428 - 貝塚爽平『東京の自然史 増補第二版』(紀伊国屋書店、1979年。講談社学術文庫、2011年)4章4節「下町低地の地盤と災害」232-252頁(講談社学術文庫版)を参照。
- 髙坂利光(撮影技師)「ホーヱル機を肩にして 大震災實况撮影の苦心」(『日活畫報』十一月 大震災號、日活畫報社、1923年)11-12頁。
- 冊子「映画『關東大震大火實況』説明台本」(制作年不明)8頁。
https://kantodaishinsai.filmarchives.jp/documents/d02.html
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