駅舎や車両の被災と無蓋貨車の避難家族

被災した牛込駅や焼失した車両とともに、無蓋貨車に避難した一家の中に、幼少期の三木鶏郎の姿が写っている

クリップ詳細

クリップ名称 駅舎や車両の被災と無蓋貨車の避難家族
映画題名 大正十二年九月一日 帝都大震災大火災 大惨状
クリップTC[in/out] 00:04:29:12 / 00:05:07:11
カテゴリ[場所/シーン] 千代田 / 焼失,倒潰・損壊,避難生活の場
推定される撮影場所 牛込駅、牛込駅と飯田町駅の線路敷、不明(前後関係から、飯田町駅か? これ以降、御茶ノ水の土砂崩れと河道閉塞、水道橋駅(水道橋の南西側の鉄道敷)と続く)
推定根拠 「うしごめ」のプレートがある駅のホームを写した冒頭のカットでは、『東京物理學校五十年小史』(1930年)との照合から、画面の奥に東京物理学校の校舎が見えることがわかる。また、上掲書62頁には、同校の所在地が東京市牛込区神楽町二丁目二十四番地とある。
『理大白書―データを中心として―平成24年度版』(2013年)「1.学校法人東京理科大学の沿革 Ⅱ東京物理学校 4 神楽坂校舎の完成」には、「この校舎は後の関東大震災にも倒壊・焼失を免れ、昭和12年撤去時まで現8号館付近に聳えていた」とあるが、上掲の『東京物理學校五十年小史』および東京遞信局による地図『東京市牛込區』(1922年)と比較すると、現在の6号館付近にあったものと考えられる。
2カット、3カット目の貨車の位置については、被写体とおもわれる「繁田保吉」の長男・裕司(三木鶏郎)の回想録『三木鶏郎回想録① 青春と戦争と恋と』(1994年)より、牛込駅と飯田町駅の線路敷と推定。
また、水道橋駅については『都立工芸高等学校100周年記念誌 都立工芸100年の歩み』(2009年)64頁掲載の写真「水道橋と松平家邸宅(大正6・7〜12年頃 松平公益会提供)」に写る木立ちと05:40(全篇通しのタイム)あたりからの遠景の木立ちが一致する。同写真の手前に水道橋が見えるため、プラットフォーム付近から東北東方向を撮影したことが判る。
典拠資料 東京物理學校編『東京物理學校五十年小史』(1930年)写真「現校舎」および62頁
(国立国会図書館デジタルコレクション)https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1445390/11https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1445390/62
学校法人東京理科大学編『理大白書―データを中心として―平成24年度版』(2013年)「1.学校法人東京理科大学の沿革 Ⅱ東京物理学校 4 神楽坂校舎の完成」4頁
https://www.tus.ac.jp/about/data/data/file/wp24_3.pdf
東京遞信局編『東京市牛込區』(遞信協會、1922年)
(東京都立図書館デジタルアーカイブ[TOKYOアーカイブ])https://archive.library.metro.tokyo.lg.jp/da/detail?tilcod=0000000008-00002241
東京遞信局編『東京市麹町區』(遞信協會、1923年)
(東京都立図書館デジタルアーカイブ[TOKYOアーカイブ])https://archive.library.metro.tokyo.lg.jp/da/detail?tilcod=0000000008-00002347
三木鶏郎『三木鶏郎回想録① 青春と戦争と恋と』(平凡社、1994年)60-63頁
「関東大震災の記録映像に三木鶏郎が映っている話」(2022年12月23日)
(ウェブサイト「上大岡的音楽生活」)https://us-vocal-school.com/weblog/music_life/archives/00042138.html
東京都立工芸高等学校同窓会「築地工芸会」100周年記念誌編集委員会編『都立工芸高等学校100周年記念誌 都立工芸100年の歩み』(2009年)64頁 写真「水道橋と松平家邸宅(大正6・7〜12年頃 松平公益会提供)」
旧住所 麹町区富士見町5丁目13番地先(牛込駅構内)から北西方向(牛込区神楽町1丁目24番地東京物理学校方面)を撮影。
新住所 千代田区富士見2丁目9-7地先(牛込橋南西附近)から北西方向(新宿区神楽坂1丁目3 東京理科大学 6号館附近)を撮影。
推定される撮影時間 -
推定根拠 -
典拠資料 -
関連資料 -
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