東大学生救護団の活動

救援活動をおこなう東大学生救護団。上野公園の北端にあった竹の台陳列館と思われる建物が映っている。

クリップ詳細

クリップ名称 東大学生救護団の活動
映画題名 關東大震大火實況
クリップTC[in/out] 00:29:07:02 / 00:29:33:10
カテゴリ[場所/シーン] 文京,台東 / 救助・救護・救援
推定される撮影場所 東京帝国大学理学部化学東館ならびに巡視詰所前、上野公園二科展会場前
推定根拠 クリップは5つのカットから構成されており、撮影場所は本郷の東京帝国大学構内と上野公園の竹の台に分かれている。第一、第四カットは学生本部が置かれていた巡視詰所、第二カットは理学部化学東舘の前を写している。第三、第五カットは竹の台。
当時二科展は「竹の台陳列館」で開催されていた。須賀健吉編『平和記念東京博覽會案内』(公認平和記念東京博覽會案内発行所、1922年)92頁によると、同博覧会で「竹の台陳列館」は染色館として利用。同署巻頭の「染色館」の写真で本シーンの学生たちの背後に見える白い壁と軸組が確認できる。また、同署巻頭の「平和記念東京博覧會平面圖」から、「竹の台陳列館」は、現在の奏楽堂と大噴水のあいだにあったことがわかる。
典拠資料 理学部化学東館は、現在の理学部理・化学館だが、これについては以下のサイトを参照。
山内薫「化学東館竣工100周年」
(東京大学大学院理学系研究科・理学部)https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/story/newsletter/page/5123
また、対外的には東京帝国大学学生救護団と称していた「学生本部」は、その向かいの木造平屋の巡視詰所にある。位置関係は関連資料として挙げた図「1922本郷建物構造凡例小避難関係」(鈴木淳氏提供)を参照のこと。なお、穂積重遠「東京罹災者情報局の活動」(山本美編『大正大震火災誌』[改造社、1924年]「救護誌」87頁)には、学生有志による罹災者救護事業の一部として行なわれた「東京罹災者情報局」について、その「看板が、学生本部―實は運動場の角の巡視詰所―に掲げられたのである」と書かれている。
(国立国会図書館デジタルコレクション)https://dl.ndl.go.jp/pid/967928/1/380
学生は旧制高等学校の所属である(白線帽を被っている)。帽章の形状は東京帝国大学の北側に隣接していた第一高等学校のそれと判別できる。第一高等學校寄宿寮編『向陵誌』(1925年)115頁によれば、「上野の救護事業情況を視察調査せしも、一高救護團として手を伸ばすべきに非るを知り、生徒監亦手を引くことを極力主張せしかば、救護團の事業としては、以後は罹災寮生調査及慰問と帝大情報局應援とに専ら力を注ぐことと」したため、東京帝国大学の活動を支援していても矛盾はない。
(国立国会図書館デジタルコレクション)https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940516/103
同書121頁によれば、彼らの応援した帝大「救護班の事務所は帝大情報部の支部として上野公園二科會場前に設けられ」、避難民への「食料品の配給其他すべて不平ならざる様努力」した。
(国立国会図書館デジタルコレクション)https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940516/106
旧住所 本郷区元富士町,下谷区上野公園
新住所 文京区本郷区7-3-1,台東区上野公園
推定される撮影時間 9月18日以降、9月23日以前
推定根拠 第一高等學校寄宿寮編『向陵誌』(1925年)115頁では、帝大情報局への応援開始は9月18日以降。また121頁には、「而して此の教護班も、二十三日頃には全く其の仕事を終へたれば」とある。
典拠資料 第一高等學校寄宿寮編『向陵誌』(1925年)
(国立国会図書館デジタルコレクション)https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940516/103
同書121頁によれば、彼らの応援した帝大「救護班の事務所は帝大情報部の支部として上野公園二科會場前に設けられ」、避難民への「食料品の配給其他すべて不平ならざる様努力」した。
(国立国会図書館デジタルコレクション)https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940516/106
関連資料 図「1922本郷建物構造凡例小避難関係」(鈴木淳氏提供)
https://kantodaishinsai.filmarchives.jp/documents/d09.html
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