大正拾弐年九月一日 猛火と屍の東京を踏みて

作品詳細

映画題名 大正拾弐年九月一日 猛火と屍の東京を踏みて
映画題名ヨミ タイショウジュウニネンクガツツイタチ モウカトシカバネノトウキョウヲフミテ
製作年月日 1923年
時間(分) 10
サウンド サイレント
カラーの種類 白黒
作品解説 当時、大阪・天王寺に所在した映画製作会社、ハヤカワ藝術映画製作所が、2名の撮影技師を東京に派遣し、被災した街の姿を収めた記録映画。名所を巡る東京見物的な性格を有するがゆえに、吉原の焼跡など、この作品にしか存在が認められない貴重な映像が残されている。元素材となる可燃性フィルムの溶解により、エンドが確認できず、作品の全体像は掴めない。
製作会社 ハヤカワ藝術映画製作所
スタッフ 見ノ木秀吉、吉田壯[撮影技師]
検閲番号等 オリジナルの尺長に関連して、1925年から1930年までの内務省検閲時報を調べたところ、ハヤカワが製作したと思われるフィルムは2件、検閲を通過している。
(1)(検閲日)1925年9月1日(検閲番号)1741(題名)帝都の大震災(製作者)早川映画商會(申請者)前島初太郎、2巻、307m[16fpsで17分]
(2)(検閲日)1927年7月12日(検閲番号)B9277(題名)東京震災(製作者)ハヤカワ映畫(申請者)駒田萬次郎[好洋]、2巻、393m「16fpsで21分]
フィルム映写速度 16 fps
備考 元素材は、2001年度に吉江薫氏より受贈した35㎜可燃性上映用プリント。受贈時において、フィルムのエンドは溶解が激しく、複製を取ることができなかった。

ハヤカワ藝術映画製作所は大阪・天王寺に所在した教育映画製作会社で、震災前「船頭小唄」のヒットにあやかって製作された劇映画『利根川情話 枯すゝき』(1923年)で注目を集めた。その後1927年ごろまでは存在が確認される。山本嘉次郎が一時期在籍したことでも知られる。社主の早川一郎は、後に満洲に渡ったと言われ、芥川光蔵率いる満鉄映画班で『秘境熱河』『草原バルガ』(いずれも1936年)などの撮影を担当し、その後満洲映画協会に入社した早川弘二と同一人物ではないかと思われる。
参考文献 『シンポジウム報告論集 関東大震災と記録映画―都市の市と再生-』(東京大学大学院人文社会系研究科、2004年)14頁
大澤浄「関東大震災記録映画群の同定と分類――NFC所蔵フィルムを中心として」(『東京国立近代美術館研究紀要』17号、2013年)48-61頁
ハヤカワ藝術映画製作所の所在地については、『利根川情話 枯すヽき』広告(『活動畫報』第7巻第7号、1923年。住所表示は「大阪市南町天王寺大道四丁目三一〇一番地」)、『大正拾五年版 日本映書事業總覽』(國際映畫通信社、1926年)109頁、映画『利根川情話 枯すヽき』については、『活動畫報』第7巻第7号、1923年、79頁を参照した。
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