『關東大震大火實況』という「記憶の場」

宮間純一(中央大学文学部)

<わたし>の被災経験から<わたしたち>の物語へ

戦争・災害・感染症といった人間の生存を脅かす危機に直面した人びとは、みずからが経験した出来事を社会に記憶しようとしてきた。大規模災害の場合、被災状況から復興までの足取りをまとめた災害誌や鎮魂・慰霊のためのモニュメント、関連資料を収蔵・展示するためのメモリアル施設などが「記憶の場」[注1]としてつくり出されてきた。

関東大震災でも、内務省社会局編『大正震災志』(内務省社会局、1926年)[注2]をはじめとする災害誌が、政府や被災した府県などによって編纂・刊行された。また、死者数が3万数千人にも及んだとされる被服廠跡には1930年に「震災記念堂」(現東京都慰霊堂)が建設されている。翌年、被災物や救援に関する資料などの展示施設として「復興記念館」(現東京都復興記念館)が記念堂に併設された。両施設がある墨田区の都立横網町公園は、関東大震災の記憶をいまの東京にとどめる象徴的な空間となっている[注3]。

このような「記憶の場」を通じて、関東大震災の記憶は<わたし>の経験から<わたしたち>の物語へとつくりかえられてゆく。本来、災害の経験は被災者一人ひとりに固有であり、絶対的なものである。しかし、発災から時を経て災害の振り返りが始まると、個々人ではなく、日本国民あるいは東京市民、横浜市民の体験として関東大震災が語られるようになった。<わたし>ではなく、<わたしたち>がいかなる被害を受け、苦難を乗り越えてきたのか、平準化された国民・市民の物語が形成される[注4]。ともすれば、<わたし>の被災経験は、<わたしたち>の記憶の中に呑み込まれてしまう。

『關東大震大火實況』の構成

災害誌やモニュメントのほかに、新聞や活動写真などのメディアも<わたしたち>の物語の創出に一役買ってきたが、それらの「記憶の場」は、記憶の担い手となる人びと・組織の思惑のもとに生み出される。「記憶の場」は、「史実」(実際に起こったとされること)に何も加えずそのまま提供してくれるわけではない。「史実」の切り取りや選択・誇張、あるいは隠蔽が「記憶の場」にはみられる。

たとえば、行政組織の製作物からは、政府や府県の意図が読み取れる。文部省社会教育課によって製作された『關東大震大火實況』(以下『實況』という)も例外ではない。本コラム企画でも、森田のり子さんが「教育映画」として『實況』が構成されていることを指摘している[注5]。

以下、私なりに『實況』を読み解いてみたい。

『實況』は、①発災後の人びとの苦難→②「聖恩」(天皇・摂政の恩恵)による救い→③官(行政機関・軍隊など)の活動→④国内外からの支援→⑤被服廠などの惨状→⑥復興への道筋と横浜の状況→⑦皇室と災害という流れで、ストーリー全体が構成されている。

まず、第1巻では被害の規模の大きさや震災の悲惨さが前面に出され、第2巻では、嘉仁天皇(大正天皇)からの「御内帑金」(ごないどきん。天皇の「御手許金」のこと)下賜や、裕仁摂政(皇太子、昭和天皇)の「御沙汰書」により、被災者の心が救われたというエピソードが紹介される。被災者は、「極度の恐怖と疲労と飢餓とに、生きた心地もなかつた」が、天皇が「御軫念(しんねん)あらせ(「御心を痛ませ」の意)」(カッコ内のよみ・注記、読点は筆者による)て1,000万円を下賜し、摂政も有り難い言葉をかけたことで、「重ね重ねの聖恩の洪大なるに唯感泣ばかりであつた」とされている[注6]。こうした天皇や皇族の被災者に対する慈悲深さを表す描写は、『實況』の中で繰り返されている。

図1:恩賜金を受領しに集まった人びと(宮内庁宮内公文書館所蔵、識別番号26651)

第3巻では、政府による必死の対応が描かれている。発災後の混乱の最中に組閣した山本権兵衛内閣(第2次)の面々が「寝食を忘れて」働き、関東戒厳司令官福田雅太郎(陸軍大将)が「不眠不休」で活動する姿が映し出される。また、政府のもとに置かれた臨時震災救護事務局は「治安維持、暴利取締、支払猶予の三大緊急勅令の適用に全力を尽くして、食糧配給の円滑をはかり」、警視庁の職員は「妻子を失ひ家財を焼いてもこれを顧みる隙なく、只管(ひたすら)保安の職責に映掌して、昼夜を別たず活動を続けて居る」という。閣僚や軍人・官吏たちが、災害対策に最善を尽くした様子がことさらに強調されている。

つづいて、国内外から寄せられた支援物資や救援活動に言及がある。これらは、世界各国からの「人類愛の発露」や、救援活動を手伝う「健気な」中学生の「同情博愛の発露」などと評価される。また、物資を運ぶ海軍の「目醒しい活動」によって、「罹災地に於ける民心を安んぜしめた許りでなく、食糧の配給は潤沢なるを得、罹災民は辛ふじて飢餓を免れ得たのである」と、ここでも軍の活躍が紹介されている。

第3巻の最後で、被服廠での被害など震災の悲惨さが再度強調されて、第4巻へと移る。第4巻では、復興への道筋が示されている。各地からやってきた青年団員や朝鮮人団体相愛会によるボランティアの様子、東京市による職業紹介所での失業者への就職斡旋、電線の架設などにあたる工兵隊、交通復旧のために汗を流す電車工夫などが描かれる。その後、横浜の被災状況が報じられ、ふたたび甚大な被害が印象づけられる。

最後の第5巻では、天皇・皇族の動静が詳報される。天皇・摂政の無事は「国民の斉しく慶福に堪へぬ処である」とされ、宮城(皇居)にも被害があったものの、二重橋(正門鉄橋)・御車寄などが健在であることは「さながら心強さを感ずるこそ国民の至情であらふ」と皇室・宮城の安泰が語られる。最後は、宮城の二重橋の映像をもって終わっている。前代未聞の大規模災害ではあったが、天皇・宮城≒国家が一切揺らいでいないというメッセージを発しようとする意図が読み取れる。

以上のように、『實況』では、まず災害の悲惨さが語られた上で、その苦難に対応すべく政治・行政や軍が全力を尽くしたことが説かれている。次に、民間の人びとも利害を考えずに協力して、それが復興につながってゆくという美談が叙述される。そして、この物語は、国民の苦難に心を痛めた天皇の「聖恩」・「恩賜」で被災者が救われた、という語りによって支えられている。

このような『實況』を構成する要素は、関東大震災以前から行政組織が編纂してきた大規模災害の記念誌にもみられる[注7]。たとえば、1896年に発生した明治三陸地震津波の災害誌として宮城県がまとめた『宮城県海嘯誌』には、「此惨劇ハ実ニ我カ三陸ニ於テ演出セラレタリ、是レ洵(まこと)ニ古今稀有ノー大災変ニシテ、後世子孫ノ長ヘニ記臆スヘキ所ナリ、且ツ又此ノ奇変ニ就キ、畏(かしこ)クモ聖天子・皇太后・皇后三陛下ヲ始メ奉リ、各宮殿下ノ御下賜金及ヒ公私仁人義士ノ義捐金等ハ罹災人民ノ須臾(しゅゆ)モ忘ル可カラサル所、乃チ彼是ヲ綜合シテー部ノ宮城県海嘯誌ヲ編成シ、永ク紀念ニ資スルト」[注8]と目的が記される。津波による惨劇を後世に永く伝えるというねらいが掲げられるとともに、天皇や皇族からの下賜金、民間から集まった義捐金に対する感謝が述べられている。

『實況』は、こうした過去の刊行物にみられる災害記憶のあり方を踏襲しており、近代国家が経験してきた災害の積み重ねの上に製作されたものだと考えられる。

天皇・皇族の記憶

関東大震災の記憶の屋台骨を支えたのは、天皇・皇族をめぐる語りであった。『實況』では、天皇・皇族に関する話題がたびたび登場し、特に第5巻は皇室や宮家にかかわる出来事で構成されている。前述のように、関東大震災以前の災害誌でも同種の傾向は見られるが、『實況』においてここまで皇室が強く打ち出された背景を考えてみたい。

2011年の東日本大震災の際に、天皇・皇后が被災地を慰問する様子が大きく報じられた。天皇・皇后による被災地の視察や被災者の慰問は、明治期には行われていなかった。通例では、侍従などの側近が派遣されて、天皇や皇族はその報告を受け、救恤金を下賜するのが一般的であった。ところが、関東大震災では、節子皇后(貞明皇后)や摂政が被災地を直接視察している。

図2:皇后慰問の様子(宮内庁宮内公文書館所蔵、識別番号12849)

当時、天皇は病のため、日光田母沢御用邸で皇后とともに静養していたので、実質的な執務は摂政が務めていた。摂政は、天皇に代わって9月15日・18日に東京、10月10日に横浜・横須賀の被災地を巡察している。皇后は、日光から東京へもどり、9月29日から12月上旬にかけて被災地や被災者を収容した病院などを回った。また、皇后の「御心」から宮内省巡回救療班が設けられたのも異例であった。宮内省巡回救療班は、自動車で東京市内を巡回し、無料で診察・治療を行った組織である。「お産の前後や小児の疾患等」に治療が行き届かないことを心配した皇后の「御心」から設置されたのだという[注9]。

図3:宮内省巡回救療班ビラ(宮内庁宮内公文書館所蔵、識別番号68137)

東京府下で起きた未曾有の震災であったこと、混乱を鎮めるために皇室の権威を利用しようとしたことなどが、前例にない措置がとられた理由として考えられる。一方で、慈悲深く、被災した民に寄り添う皇室像は、国民に皇室の権威を発信するための機会ともなった。そこでは、当時の国民だけではなく、将来の国民の目も意識されている。だからこそ、政府や府県などが作成した関東大震災の記録集では、「聖恩」が強調されて悲劇とともに記憶されたのである。こうした目でみれば、『實況』は、ただ関東大震災の記録映画というだけではなく、皇室のあり方や国民への見せ方、災害と皇室の関係を分析する上でも貴重な資料といえる。文部省が製作した「教育映画」だということであれば、なおさらであろう。

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